錆びたナイフ

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2017年12月6日
[本]

「資本論 経済学批判 第1巻 I,Ⅱ」 カール・マルクス

「資本論」

資本論 第1巻 4分冊のうち2冊
この日経BP社発行・中山元訳本はとても読みやすい.
学生時代に買った大月書店の資本論は本棚に鎮座したままである.

マルクスは言う.
「商品というものは、一見したところ、ごくあたりまえのつまらない物にみえる。しかし商品を分析してみると、それがいかに形而上学的な屁理屈と神学的な気難しさに満ちた何とも厄介なものであるかが分かる」
「商品」は「使用価値」と「交換価値」という二つの仮面をつけていて、マルクスはこの仮面の下の「資本」というモンスターの「運動」を描き出す.
この怪物は自己増殖する.

「労働とはまず何よりも、人間と自然の間で行われる過程であり、人間が自分の行為によって自分と自然の物質代謝を媒介し、調節し、制御する過程である」
「ここでは、動物に近い原始的で本能的な労働形態は考察しない。労働者がみずからの労働力の売り手として商品市場に登場するときの状態は、人間の労働がまだ原始的で本能的な形態を脱していなかった遠い昔の状態とは、まったくかけ離れたものだからである」
単に経済学の本でも150年前の古典でもない、人間と社会を洞察して、現代の課題を追っている.
面白い.

「価値表現の秘密とは、すべての労働が人間労働一般であるがゆえに、そしてそのかぎりにおいて、すべての労働は同等であり、同質のものとして通用することにある。しかしこの秘密は、人間が平等なものであるということを民衆がすでに自明なものとして確固として信じていなければ、解読できないものなのである」
奴隷制/農奴制社会にも貨幣/資本/商品はあったが、マルクスのいう資本主義は近代社会に生まれた.
それは産業革命や分業システムの中から誕生したというだけでなく、人間の平等や合理主義を前提にしたのである.

機械を使って生産をする時、機械が必要とする燃料や潤滑油や消耗部品を欠かすことはできない.
人間の労働力を生産に使う場合も同じように、人間が日々生きて活動するための食事や睡眠を欠かすことはできない.
ただし人間は、日々生きて活動するために必要な労働時間を超えて働かせることができる.
機械にはそれができない.
人間が余分に労働した時間が「増殖価値」を生み出し、それが「資本」と呼ばれる所以である.
「資本の生の衝動はただ一つである。みずからの価値を増殖すること、増殖価値を作りだすこと、資本の不変部分である生産手段を利用して、できるだけ多くの増殖労働を吸いとること、それが資本の唯一の衝動である」
マルクスは、資本家のお先棒を担ぐ御用学者に歯に衣着せぬ批判を浴びせたが、学問上の評価は公平で、その文章にはユーモアもあった.
悪辣な資本家が労働者を搾取している、というふうにマルクスは言わない.
「資本家」は「資本」の使徒・代弁者に過ぎないと考えている.
ではなぜ資本は増殖しようとするのか、マルクスはそれを説明していない.
あたかも「生物」とは何かと説明できても、なぜ「生物」はあるかと説明できない、かのように.

人がものを「食べる」時、それは食物を「消費」すると同時に、身体を動かすエネルギーを「生産」している.
「生産」と「消費」は人間に限らず生物が生きていることそのものである.
人間だけがこの内在的な働きを「商品」として社会に外化したのだ.
「生産」と「消費」の時間的/空間的なズレは「市場」を生み出した.
あまつさえ、労働者は自らの労働力を市場に売りに出した.
「価値として見たすべての商品は、凝固した労働時間の特定の量にほかならない」
「ここで一労働時間とは、紡績工の生命力が一時間にわたって支出されたことを意味する」
マルクスが、商品の使用価値はそれに注がれた労働力から生まれるというとき、分業化された工場で、個々の労働者の違いを超えた「一般的な労働力」を想定している.
人間を十把一絡げにしたこの着眼は、世界を斧で断ち割るような明解さと同時に、人間の存在を「使用と交換」「生産と消費」という身もふたもない「パーツ」に解体してみせた.
機械が耐用年数を経て壊れて動かなくなるように、ヒトもまた労働の果てに朽ちて死ぬのだ.
「労働力の価値は他のすべての商品と同じように、その商品を生産するために必要な労働時間によって決まる」
これは、この社会で賃労働を得て働く人間の価値は、彼が生まれ育った家庭に依存すると言っているのか?

マルクスが論じる商品は、150年前の先進国の一次・二次産業の製品であり、サービス業を中心とした三次産業がGDPの半分以上を占める現代の資本主義国では話が違う.
ショッピングセンター、テーマパーク、金融会社、証券会社、街にあふれるこれら「サービス商品」の「価値」は、それを生み出す労働時間に連動しない.
コンピュータ上の先物取引、店員のいない販売店、工員のいないロボット工場は、はたしてどうやって「増殖価値」を生み出すのか.
マルクスの貨幣の理論は金本位制時代の話であり、その後、使用価値としては紙切れに過ぎない紙幣や株や債券が交換価値を持ち、今やコンピュータネットワーク上のビット列が、巨額の価値を流通させている.
「貨幣は流通においてつねに商品の位置にとって代わり、そうすることで商品をつねに流通の領域から遠ざけるとともに、みずからの最初の出発点から遠ざかりつづける。このように実際には貨幣の動きは商品の流通を表現するものに過ぎないのに、反対に商品の流通が貨幣の運動の結果でしかないようにみえるのである」
これは現代の資本市場、マネー・マーケットの予言である.
「マニュファクチュア的な分業では、資本家が労働者たちにたいする無条件的な権威をそなえていることを前提としており、労働者たちは資本家の全体的なメカニズムの単なる肢体にすぎない。世界的な分業においては、独立した商品の生産者がたがいに向き合っている。そこで権威として認められるのは、競争だけ、それぞれの利益がたがいに相手に及ぼす圧力のもつ強制力だけである。動物の世界で、すべての種の生存条件を多かれ少なかれ維持しているのが、万人の万人に対する戦いであるのと同じである」
これは、グローバリズムの予言である.
マルクスは「資本主義」を、人類の自然の状態にはあり得ないものであり、同時に誰かが意図的に生み出したものでもなく、歴史的な必然性で登場したものとみなしている.

「こうして資本制的な生産の歴史においては、労働日の標準化が、労働日の制限をめぐる闘争として現れてくる。これはすべての資本家、すなわち資本家階級と、すべての労働者、すなわち労働者階級との闘争である」
2分冊目の後半では、産業革命期の英国労働者の過酷な長時間労働の惨状と、子供や女子労働者を保護し労働時間を短縮する社会の動きを論じている.
放っておけば、資本はなりふりかまわず労働者をしぼりあげようとする.
1833年の工場法を皮切りに、労働者を保護する法律が成立する.
現在の日本の労働基準法には、
『労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない』とある.また、
『使用者は、労働者に、休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない』とある.
19世紀から、何が「解決」したのか、しなかったのか.
貴族と地主と資本家を追放し、労働者と農民が資本を支配するという社会主義国家の試みは21世紀、どれも破綻した.
マルクスは何を夢見たのか.

「どのようなものであっても、使用の対象でなければ価値をもつことはできない。それが無用なものであれば、そこに含まれる労働もまた無用なのである。これは労働とはみなされず、いかなる価値も作りださないのである」
マルクスは公然と「価値」とは何かと問うて答えた.
その対象は「人間の欲望を満たす事物」という「商品」であり、「価値」を宗教でも道徳でもない「科学」として論じようとした.
マルクスの力技は人間社会の根幹をゆさぶるが、そこから、ニーチェの言う『音楽家・詩人・舞踏者・降霊術師』らがパラパラと落ちてくる.
労働力ばかりでなく、やがて「資本」は、人間のすべてを商品として市場のメカニズムに放り込むだろう.
「いかなる価値も作りださない」ということが唯一、このモンスターを逃れる方法である.


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