錆びたナイフ

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2017年7月28日
[本]

「意識をめぐる2冊の本」スィミーニ/トノーニ/コッホ

「意識はいつ生まれるのか」
マルチェッロ・スィミーニ、ジュリオ・トノーニ
「意識をめぐる冒険」 クリストフ・コッホ

「意識をめぐる2冊の本」


「意識」が人間の脳の中でどのように「発生」するのか、最前線の脳科学者の研究報告である.
彼らは、脳の代謝活動を測定するfMRIやPETという機械と、ニューロンの電気活動を記録する脳波図や脳磁図を使って「意識」を捕まえようとする.
「われわれは、意識が、頭蓋骨のなかにあるこぶしひとつ分のニューロンが機能することで生みだされると知っている」
脳がなければ意識はなくなるのだから、意識は脳の中にある、のである.

「意識」とは何か? 脳細胞(ニューロン)が活発に働けば意識があり、そうでなければ意識が消える、いやそう簡単ではないらしい.
小脳は大脳よりはるかに多いニューロンを持っているが、小脳を摘出しても意識はなくならない、二つの大脳半球をつなぐ脳梁を切断すると意識は左右脳の機能に応じた二つに分かれる・・云々.
昏睡、覚醒、ロックトイン症候群、植物状態、脳死、最新の脳科学の事例は驚きに満ちている.
「植物状態」がはじめて定義されたのも、眠っている時も脳は活動していると発見されたのも、実はごく最近のことだという.
意識が消えるのは、深い眠り(レム睡眠)の時、麻酔薬を投与された時、てんかんの発作等で意識を失った時、植物状態にある時、そして脳死.
夢を見ている時(ノンレム睡眠時)は意識がある、とみなしている.

標題の2冊の本は、見解の違いはあるが、総じて発想はよく似ている.
どちらもニューロンを研究すれば意識が分かると確信していて、哲学的な考察は排斥しており、心理学的なアプローチはほとんどない.
「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある」
トノーニが考え出したこの「統合情報理論」はコッホも支持していて、彼は情報の統合作用があれば、コンピュータでも何らかの意識があると考えている.
一方当のトノーニは、カーナビやパソコンに意識はないという.
「アヒルのように鳴き、アヒルのように歩くものがあるとしたら、それはアヒルだ」と言ったのシャーロックホームズである.
意識があるように見えることは、意識があることだと、私は思う.
だから意識の有無の根拠は、観測する対象にはなく、観測する側にある.
いや、アヒルがアヒルである根拠はアヒルの側にあると、彼ら脳科学者は信じている.
例えば「アヒルのDNAと一致するからアヒルだ」とか・・

最新の脳科学は驚くべきことに、マウスの脳内の特定のニューロンに、ウィルスを通じて加工したDNAを組み込み、ニューロンを意図的に活性化したり抑制したりできるようになった.
両著者とも遠からず、特定の意識が脳のここで発生していると判断できるようになると考えているが、実はまだ誰も成功していない.
デカルトはその心物二元論で、人間の精神は脳内の松果体に宿ると考えた.
この本の著者たちは、意識は脳内のニューロンに宿る、と考えている.
400年前とたいして変わっていないと、私は思う.

意識のさらに奥にあるのは無意識なのだが、コッホは、人間が髭を剃ったり服を着替えたりするような無意識のメカニズムを「ゾンビ・エージェント」と呼んでいる.
彼は「無意識」を、反射運動とか練習の結果とか「意図しない思いこみ」程度の機能としか理解していないので、フロイトが聞いたらがっかりするだろう.

コッホは「クオリア」に言及している.
ヒトの網膜が特定の波長の光に反応して脳がそれを「赤い」と認識するのではなく、「赤い」という「感じ」は青でも黄色でもない独自の質感/記憶を生み出している、それをクオリアと呼ぶ.
デジカメの赤/緑/青の受光素子のうち赤の電圧が高いとプログラムが判断すれば、デジカメは赤色を認識できる.
しかし人間は、赤いイチゴや赤い消防車ばかりでなく「赤でないもの」をひっくるめて、クオリアとして「赤」を認識する.
デジカメと人間の視覚は仕組みは似ていても、判断の仕方がまったく違うのである.
「「知覚意識」と「神経活動」はまったく異なる。私が感じる青のクオリアは私だけが直接経験できるもので、他人がそれを感じることはできないし、外部から測定することもできない、完全に主観的なものだ。一方で、青のクオリアを生み出す神経活動は、外部の観察者の誰もがアクセス可能であると言う客観的な特性を持つ。意識経験は、物理世界とは異なる世界で生まれ、異なる法則に従う」とコッホはいう.
「物理世界とは異なる法則に従う」ものをどうやって見つけ出すのか?

両著者ともこれが意識探求の決定打とみなす統合情報理論も、クオリアと似たような発想をしていて、脳波の波形が複雑なら脳内で情報の統合が起きており、それが意識そのものであると主張している.
トノーニは、経頭蓋磁気刺激という方法で大脳の特定の部位に電気刺激を与え、脳全体の反応を脳波計でとらえるという方法を考え出した.
すると意識がある場合の脳波は複雑な波形を示し、この方法で意識の有無を検知できたと言う.
「意識レベル = 全体が生み出す情報量 - 部分が生み出す情報量の総和」という数式が出てきて、いつのまにか意識は物理量で観測できるという話になっている.
そもそも脳波は、思考する情報の内容や量とどういう関係にあるのか?
トノーニは、内容は活動するニューロンの場所に、量は脳波の波形に、関連があるように見える、と言っている.

コッホは個人的な体験も記事にしているので、その発想の傾向がよくわかる.
彼が宗教を否定し自らが科学と自由と合理性を重んじる根拠のひとつとして、キリストが水を葡萄酒に変えたという聖書の記述を取り上げ、水の分子がアルコールの分子に変わるなどあり得ないという.
その「水」は、水素と酸素の化合物ではなく、「水というクオリア」である.
子供がヌイグルミを「クマさん」と呼ぶ時、それは「布切れとスポンジの塊」ではなく、例えでも象徴でもなく、それはクマなのである.
ニンゲンにとって、ヌイグルミのクマも絵本のクマも動物園のクマもどれも、「クマ」というクオリアなのである.
「意識」も実はクオリアなのだ.

踏切で警報機が鳴れば電車がやって来るが、警報機が鳴ることが電車が来る原因ではない.
シェクスピアの本を分析して、それが紙とインクでできていると主張してどうするのだろう.
物事の発生には原因があり、原因は単一の結果を生むと考える還元主義で、「統合された」事象を分析すると、世の中はますますわからなくなるのである.


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