錆びたナイフ

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2017年4月8日
[本]

「分析心理学」 C.G.ユング


「分析心理学」


ユングが1935年にロンドンで行なった講演とディスカッションの記録である.
聴衆は心理学者あるいは精神分析の医師たちであり、内容は専門的だが、ユングの話はわかりやすい.
「私は自我は一種のコンプレックスであると考えています」

聴衆である多くの医師から、再三フロイトとの違いを質問されると、
「去勢コンプレックスは、理論なのです」
「私は、夢がコンプレックスに対して何を言おうとしているのかが知りたいのであって、何がコンプレックスであるのかを知りたいのではありません」
このあたりがとても面白い.
ユングの言う「神経症」とは強迫性障害とかヒステリーのことで、精神病とはちがう.
確かに彼は医者で「精神的な病気」に苦しむ患者を治療しているが、精神を分析することで治癒が可能であると考えているのはフロイトと同じだ.
同時にユングは「神経症はまさに自己治癒の試みなのである」というとらえ方をしている.
それがユングの自由な発想を支えていて、このスイス人、一介の医師というより思想家である.

彼は神経症の治療の体験を語りながら、患者の夢の話をする.
「(私は)夢をよくわからないテキストのように扱います」
「夢は隠しごとをしないというのが夢に対する私の考えです」
夢は「無意識が産み出す物語」だが、夢を通してヒトの無意識に到達できると、ユングは考えている.
無意識に対して意識が「正しい」対応をとらないと、人は精神的な不安や苦痛に襲われるというのは、フロイトもユングも同じだが、フロイトは「無意識は意識を騙そうとする」と考え、ユングは「意識的判断は常に間違う」と考えている.
当人が夢の声をよく聴きなさい、というのがユングの夢判断の基本である.
ユングが夢判断をしてコンプレックスの根源を告げ、それを受け入れて神経症が治った患者もいれば、納得せずに治らなかった患者もいるという.
では、私が見るしょーもない夢は、いったい何を告げているのか.
夢に、理由など、あるのか.
それは、生きることに意味があるはずだと考える、人間の妄想であり、その妄想そのものがすなわち「人間」なのではないか.

ユングは人間の夢の中に人種や文化を超えた共通の表現があるのを発見して、それを「元型」と名付けた.
個人的な夢の底に、非個人的な夢つまり人類共通の「集合的無意識」がある、と言う.
「そこは、原初的な無意識の場であり、同時に治癒と救済の場なのです。なぜなら、そこには全体性と言う至宝が内に含まれているからです。そこは、混沌という竜が住む洞窟であり、不滅の街であり、呪術の円であり、・・つまり分裂した性格のあらゆる部分がすべて結合されている神域なのです」
ユングの知見は、キリスト教から、チベット哲学、中国の道教、陰陽術、曼荼羅にまで広がる.
「普遍的無意識は常に作動している機能であり、人間は常にそれと接触し続けていなければならないからです。人間の心的および、精神的健康は、非個人的なイメージとの協調いかんにかかっています。だから、人間は自己の宗教必ず持っているのです」
「宗教とは精神療法の体系です」
人間の無意識が、人類共通の文化的なイメージを喚起していると考えるのはユングの特徴で、その最高の成果が、旧約聖書の「ヨブ記」をテーマにした彼の著作『ヨブへの答え』だと思う.

「われわれは弱さや不可能であることを通じてのみ、無意識やより低次の本能的世界や自分の仲間たちと結びつくのです」
ユングは、人間が理性と合理主義で世界をコントロールできると考えていない.
そいつ(無意識)は、巨大で手に負えないものであり、同時にそれは生きる意味そのものだ、と考えている.

フロイト父はウン詰まっていたが、ユング母はその乳を大地に垂れ流している.
世界にある、
汚れて、いまわしく、禍々しいもの.
はるかに近寄りがたく畏れ多いもの.
それは、外から来たのではなく、くりかえし、人間の「内側」からやって来た.


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