錆びたナイフ

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2017年2月8日
[本]

「『もののけ姫』はこうして生まれた。」 浦谷年良


「『もののけ姫』はこうして生まれた。」


1997年に公開された「もののけ姫」の制作現場を、TV番組のために長期取材したその記録である.
宮崎駿の映画の中で「もののけ姫」は最も矛盾に満ちてイメージ豊かな作品だが、この制作記録も実に面白い.
テレビマンユニオンの浦谷は、スタジオジブリで映画の制作過程を取材しながら、この困難な映画が果たして完成するのか、日本屈指のアニメーター集団の奮闘を描き出している.
同時にこの書は、宮崎駿という稀代の男の、煩悩と苦悩の物語でもある.

多くのスタッフと莫大な資金を投じて作るこの作品の要は、宮崎の脚本と、彼が全てチェックする原画に依存している.
この男、人間や動物の動きを、その骨格や筋肉の動きから熟知しているだけでなく、アニメーションの映像として、その画像がどう見えるかを知り抜いている.
そして最大のテーマは、現代社会に向けて自分たちが何を言えるのか、作り出す作品にどんな意味があるかを考え抜いている、ということだ.
結論が出ているわけではない.
宮崎は考え悩み、うんうん唸りながら作っている.

この映画は、「タタラ製鉄」を生活の基盤にしたタタラ場の住民と、そこで生産される武器を目当てにする武士たち、森の巨大な山犬、猪(しし)の群、そして死と再生のシシ神、そのシシ神の首を狙うジコ坊とジバシリ集団、という四つ巴の展開を基盤にしている.
森の生き物たちの思いもひとつではない.
これほど錯綜した力関係の物語に、どう結末をつけるのか.

エボシ御前の率いるタタラ製鉄は、大量の砂鉄と大量の炭を必要とする.
それは必然的に川を荒らし森の木々を切り倒す.
タタラ場は、山の中の砦のようにみえる.
周囲の山々は荒廃している.
しかしそこで生きる男も女も、みな生き生きとしている.
そこで生み出される鉄器は、侍たちに武器として売られ、タタラ場の生活の糧になり、さらに彼らの自衛に使われ、森の生きものの殺戮にも使われる.
宮崎は、この巨悪の象徴をエボシ御前という強烈なカリスマに担わせた.
もののけ姫すらエボシの前で霞んでみえる.
宮崎監督のエボシ感
「こいつ飛び降りて、タッタッタッタッて走ってくる。デェーと走ってくる。この人は、もう近代人ですから、この映画唯一の。だから悪魔なんです。近代人ていうのは、基本的に悪魔なんです。自然界にとっては」

もののけ姫・サンもアシタカもエボシも、この物語に登場する者たちは、生きる上の強い矛盾を抱えている.
エボシがアシタカに言う、
「さかしらにわずかな不運を見せびらかすな。その右腕きりおとしてやろう!」
さらに、
「古い神がいなくなれば、もののけたちもただのケモノになろう。
 森に光が入り、山犬どもが静まれば、ここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう」
もののけも魑魅魍魎も怖くない.
まじないで歯痛は治らぬ.
エボシは合理的な「意識」で生きている.

宮崎駿は「森を守れ」「自然を破壊するな」などと口が裂けても言いたくないのである.
納得がいかないのである.
言わない理由の根源は、彼の「無意識」がそれを拒否するからである.
そこは豊穣であると同時に荒れすさんでいる.
そのことが彼の作品を時代に起立させている.

最後の山場は人物総出の大混乱・大カタルシス、シシ神の首を狩る.
このシーン、宮崎監督が最後まで悩み抜いてなかなか決まらず、残りの動画2万枚!
鈴木プロデューサーが必死の追い込みをかける.
一方で俳優たちによるアフレコが始まる.
アニメは「絵」だが、これに現実の役者が生命を吹き込むのである.
宮崎がベテランの俳優を使うのは、彼らが変幻自在に人物を描き出すことができるからだ.
田中裕子、美輪明宏、森繁久彌は、まさに、エボシ御前、山犬モロ、猪の乙事主(おことぬし)の声そのものに聞こえる.
宮崎がポロリと、モロと乙事主は昔いい仲だった、と言う.
これが興味津々、アフレコ作業には、作者の意図がキラ星のように散らばっている.

首をとられたシシ神の、死と再生の大津波が、森を山々を覆い尽くす.
多くのものが倒れ、シシ神も侍もジバシリもいなくなった.
エンディング.
「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう、ともに生きよう」とアシタカは言う.
「みんな初めからやり直しだ、ここをいい村にしよう」とエボシが言う.
「いやぁ、まいったまいった、馬鹿には勝てん」と言うのはジコ坊.
馬鹿というのは誰のことか.
(私は、宮崎駿のことだと思った)
結局最後に何が起こったのかよくわからない.
山に、冬が過ぎてまた春が巡って来た、ようにもみえる.

この映画は、日本映画界屈指の興行収入を生み出した.
制作ドキュメンタリーとしては大円団である.
重畳、めでたい.
ビンボー揺すりをしながら世界を描き続ける宮崎駿は、技術的にも内容的にも絵が「そこ」のレベルに到達しているか、というただ一点を見つめている.
「そこ」は彼の無意識の中にしかない.
エボシはまた「タタラ製鉄」をはじめるのか.
アシタカの右腕の、死に至る痣は消えていない.


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