錆びたナイフ

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2016年12月23日
[本]

「古代人と死」 西郷信綱


「古代人と死」


亡き妻を追って黄泉(よみ)の国までやってきたイザナキに、イザナミが言う.
「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫(ヨモツヘグヒ)しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませること恐し。故、還らむと欲ふを、しばらく黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」
ここで著者は「つまりヨモツヘグヒの「ヘ」はヘッツヒの「ヘ」である」と言う.
「黄泉戸喫」とは、黄泉の国の竃(かまど)で煮炊きしたものを食べるという意味で、そうした者は、もうこの世には帰れなくなるのである.
ここで言語は単なる「意味」ではなく「物語」を背負っている.
古事記や日本書記に書かれた「神話」から、著者は千年前にこの地で暮らしていた現実の人々のものの考え方を推理しようとしている.
ものがたりを生み出すのが人間なのではなく、ものがたりそのものが人間なのである.

「ハブル(葬)とは、こうして死体を村境の山や野や谷に放り棄てることを原義とする語にほかならない。
その葬地の呼び名にナゲショとかドウガラステバとかがあるのも、土葬やたんなる埋葬などより一段と古い風葬ないし曝葬ともいえるやりかたの名残である。
とすれば、初めにあげた古今集の「更級や姥捨山に照る月を見て」の歌も、サラシナのサラス(曝)とヲバステ山のスツ(捨)とが歌詞として意味論的に共鳴しあっている点をやりすごしてしまうならば、歌の読みとしてまずいということにならざるをえない」
あたかもシャーロックホームズのような、一見小さな気づきを積み重ねて、著者は1300年前の古代日本をめぐるミステリーを再現してみせる.

ニンゲンとは古来から「葬式をする動物」だった.
現代は「火葬」することで、風葬や土葬の長い時間をかけて、遺骸が腐って土に還る過程への困惑と嫌悪を、見なかったことにしたのだ.
この書が追求する殯(もがり)や遊部(あそびべ)といった古代「葬儀」の話は、死への過程を再現しようとする人間の、想像力のすごさである.
「ハラヘは「罪」を払い除くものであり、ミソギは「穢(けが)れ」を洗い清めるものである」
表題「古代人と死」とは、神話から国家の誕生にかけて、生と死、穢れと禊(みそぎ)、豊穣と飢餓から、「権力」が生み出されるというドラマでもある.

何代にも渡って書き写されて、かろうじて残っている文献をもとに推理することも、数万年前の土器や石器をもとにすることも、数千万年前の化石や炭素の同位元素をもとにすることも、同じなのだろう.
それは世界のミステリーの謎解きなのだ.


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