錆びたナイフ

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2016年11月19日
[歌]

「いねにけらしも」 万葉集


「いねにけらしも」


夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも

「暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母」
万葉集に万葉仮名で書かれた文字から、舒明天皇の「声」としてこの歌を再現した先達たちの苦労もものかは、
夕方になるといつも小倉の山に鳴く鹿が今夜は鳴かない、もう寝てしまったのだろうなあ・・・
その意味を問えば、まるで子供の感想文のように他愛ない.

「いねにけらしも」という、現代では聞いたことのない言葉を「いね」「に」「けらし」「も」と分解して、動詞と助動詞の連なりと言えば、料理を成分分析して、これこれのアミノ酸でできていると言うに似ている.
もとより料理を味うことも歌をよむことも人間の総体的な「体験」であるから、その対象だけを取り上げてもせん無いことだ.

車窓から見える野立て看板が、吹き溜まりのように寄せ集まったのが、都市である.
都市は、ウンザリするほど「意味」に満ちている.
野山に「意味」などない.
かくて「人間」は、意味で出来あがっている.
「声」と「言葉」と「文字」というものがあるなら、和歌はまず「声」なのだろう.
赤ん坊が泣くのも鹿が鳴くのも、人間は「自然の音」即ち声に、ありとあらゆる意味を見つけ出そうとするが、「声」はそもそも「意味」ではなく、単に「存在」そのものではないのか.

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

新古今和歌集は言葉の密林である.
なんにもない!と言っているこの歌の「意味」から、この歌の「感動」を説明するのは至難の技だ.
私は作者定家が、この歌を優れた歌であると自覚していたと同時に、野山に意味の名札をつけその行為を価値とみなす人間の営みを、どこかウソ寒く感じていたのではないかと思う.

いま声を出して昔の歌をよめば、
ある男が、千年前に「あ」とか「う」とか叫んだ以上のことはないのだ.
宇宙のビックバンの痕跡のように、それは声として、今の世界に響いている.


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