錆びたナイフ

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2016年8月22日
[映画]

「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」 2011 S・スピルバーグ

「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」


スピルバーグとP・ジャクソンとK・ケネディが製作者だから、ヒットまちがいなしの映画なのだろうと想像できる.

主人公のタンタンと愛犬スノーウィが、原作コミックから抜け出した.
リアルな役者は出てこない.
全てコンピューターで描いた絵、である.
渦中のハドック船長は、目元がタレントの照英に似ていて、トミー・リー・ジョーンズにウォルター・マッソーを足して2で割ったような人物だ.
悪役のサッカリンもそうだが、明らかに大きめの顔を除けば、登場人物の動作も表情も肌の色まで、「実写」と区別がつかない.

CGのキャラクターに演技をさせるというのは、どういうことだろう.
ハリソン・フォードがインディ・ジョーンズを演じるとき、我々は、役者としてのハリソンと、役としてのインディを見ている.
つまり役者の物語(俳優の人生)と、映画の物語を、観客は同時に観ているのである.
全編CGの映画で我々が観るのは、小説と同じ、作られた物語だけ、なのだろうか.
実は、タンタンが拳銃を持つシーンでギョッとするのは、この映画が「トイストーリー」や「ファインディング・ニモ」とは違う、人間の、アクション映画であることだ.
話は、パイレーツ・オブ・カリビアンとインディ・ジョーンズを組合せたような、スピルバーグ好みの冒険活劇だが、制作現場に俳優はいない.
映像を通して、観客は登場人物の気持ちを理解できるが、「俳優」の人生はそこにない.
作家が書いた文字のように、私たちは、映像という「記号」を読んでいるのだろうか.
このジェットコースターのような画像こそが、スピルバーグの「望み」なのか?

今時の映画は、巧妙に実写とCGを混在させるので、もはや「実写」にこだわる理由はない.
映画は単なる「絵」とみなされ、昨今の大作映画は、テレビゲームのように、起承転結のない、アクション映像がひたすら連続する「刺激発生装置」に近づいている.
起承転結とは物語のこと、始まって終わること、すなわち生と死のことである.

この映画の核心は、呑んだくれのハドック船長が、過去を思い出し、自分を取り戻すという話なのだ、だから、ウォルター・マッソーが演じていたら、もっと印象的な映画になっただろうと、私は妄想してしまう.
この妄想こそが、私にとっての映画なのである.


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