錆びたナイフ

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2016年7月25日
[本]

「吉本隆明の経済学」 中沢新一 編著

「吉本隆明の経済学」


吉本隆明の1981年から2004年までの著作や講演の中から、中沢新一が、経済に関するテーマを編纂している.

「人間が周囲の自然に対して、何か行動したり、精神を働かせたりすると、したところから自然は全部価値化されていく」
「僕が言葉の表現で言う価値と、言葉の意味というものは、ちょうどマルクスの使用価値という概念と、交換価値という概念に対応する形で考えることができます」
「経済」とは、単にモノやサービスを生産しそれを商品として販売/購入するという行為ではなく、人間の基本的な営みなのだ、と吉本は考えている.
彼は「生産は直接消費でもある」というマルクスの論旨を「生産と消費との場面の隔たりそのものが市場だ」というところまで拡張してみせる.
生産と消費が時間と空間を通して遅延することが、現代社会の基本的な構造であり、さらに生産と消費が、生きるために必要な最低限度の生活必需品から、選択可能ないわば嗜好品が半分以上を占めるというのが、現代先進国の資本主義だとみなしている.
超資本主義とか消費資本主義とか呼ばれる現代社会について、古典経済学の可能性を問い直しているのがこの書の前半で、後半は都市、農業、交換としての贈与、あるいは不況とは何か、といった論考である.
マルクスと解剖学者三木成夫を同一の発想で論じるように、吉本の論旨は幅が広く、言語論や心理学、文化人類学や映像論にまで及んでいる.

吉本が掘り返しているのは、価値とは何か、ということだ.
文学、絵画、音楽が経済の範疇から離れて別の分野を作るという視点が、この稀代の思想家の背後にある.
アダム・スミスは<歌>を歌い、リカードは散文で<物語>を語り、マルクスは<ドラマ>を描いた、というような直感的なもの言いや、マルクスの労働価値説は息苦しい、というような言いようは、吉本にとって単なる「感想」ではなく、根底的な問いであり思想のバネなのだ.
「なぜわたしたちは意図的には生産しないで動物一般のように消費だけをやって、残余として身体状態を昨日とおなじに保つということに終始しなかったのだろうか」
これは、フツーのおじさんの疑問である.
「社会の経済的な範疇、あるいは経済的な過程というものは、自然の歴史の延長線にある」というマルクスの発想からすれば、技術の進歩もグローバリズムも市場経済も、世界の必然ということになる.
「アメリカ、日本、ECでは、国民大衆の経済的な潜在実力は、どんな政府支配をもってきても統御できないレベルに到達している」
「わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる」
吉本の世界分析は、あたかも現状肯定と背中合わせになるが、まるで雷鳴のように、さらに先の光景が一瞬現れる.
「貨幣がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物が、貨幣の抽象であるように思われてきた」
「人類が意識のうちに最上とおもいながら選択していったら、現状はこうなったと言う意味では、歴史の無意識の最先端はEC(欧州共同体)だとおもいます」
「黙っていても、資本主義社会が高度になりますと国家が消滅していきます。つまり無意識が消滅させるわけです」

吉本は2012年に亡くなった.
その後世界で相次ぐテロ事件や、イギリスのEU離脱や、米国共和党のあの大統領候補の登場に、どんな思いを持つだろうか.
現代都市論のように「段階の違う境界面にぶつからざるをえなくなって、稚拙化が起こっている」と言うかもしれないが、決して「ポピュリズムの弊害」とは言わないだろう.
各章にある中沢新一の解説は平易でしっかりしているが、巻末では、「脳のニューロン・ネットワークが喩的能力を持つために、いまの人間の脳の爆発的進化は起こったとも言える」などと、みょうちきりんなことを言っている.


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