錆びたナイフ

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2016年5月23日
[本]

「善と悪の経済学」 トーマス・セドラチェク

「善と悪の経済学」


チェコの経済学者セドラチェクが、利益追及に狂奔する現代の「経済学」に苦言を呈する.
「自由市場を掲げる古典派経済学の祖とみなされるアダム・スミス、マルサス、ミル、ジョン・ロックは、何よりもまず道徳哲学者だった。経済学が分配の科学と化して図表や数式で埋め尽くされ、倫理の入り込む余地がなくなるのは、それから一世紀後のことである」
経済中心の今のこの社会がどこか「間違っている」のは、経済学者が「倫理」を捨てたからだと考える著者は、まず、経済とは何か善悪とは何かを問うた.
古代のギルガメシュ叙事詩から現代まで、西欧の哲学と経済学の歴史をたどるその文章は簡明で読みやすく、面白い.

神話の時代から「経済」は存在したし「善悪」の判断は宗教の核心だった.
「旧約聖書の教えには、富に対する嫌悪も貧しさの称賛もほとんど出てこない。富者を手ひどく軽蔑する厳格さが現れるのは、新約聖書になってからである」
「需要と供給が一致しない場合、ストア派にとっての幸福な人生の処方は需要を減らすことであって、供給(生産)を増やすことではない。一方、快楽主義者にとっては逆になる」
「イエスが残したのは「愛せよ」という掟だけであり、外から裁くいかなる律法も残さなかった。そして、善も悪も人間から、人間の意思また感情から生まれる、という立場をとった」

「善悪軸」という著者の解説が面白い.
無私の善を求めたカントに始まり、善が増えれば社会は衰退すると論じたマンデヴィルまで、一列に並べて、その中間に、ストア派、キリスト教、ヘブライ思想、功利主義、エピクロス派、主流派経済学というのが位置する.
言ってみれば、性善説と性悪説、計画経済と自由放任主義の間で、社会は迷走し試行錯誤を繰り返し、現代の「主流派経済学」は、人間の行動のすべてを「利己心」にもとづくものと考えていると、著者はいう.

邪悪なダースベーダーの軍団も、団結や信頼や忠誠という「善」がなければ集団として存在できない.
良かれと思って実施した政策が、悪い結果になることも、その逆もある.
そもそも政治とは利害調整機構であり、どんな政策にも不利益を被る人々が存在する.
ではその上で「善なる/悪なる」経済学とはなんのことか.
競馬の勝ち馬を的中させる予想は、馬券を買う者にとっては「善なる予想」かもしれないが、勝ち馬は善で負け馬が悪なわけではない.
さらに、競馬新聞がすべて予想を的中させたら、そもそも競馬は成り立たない.
経済学者も日銀もFRBもことごとく思惑が外れ、すべからく万人の望む社会を実現できないでいることそのものが、社会を作るエネルギーになっている.
という私の発想は、マンデヴィル「右派」のようだ.

「現在過去問わずあらゆる政体の中で、「罪」が人間の精神にどれほど巣食っているかを理解しているのは、民主主義下の資本主義だけだ・・・しかしどんな政体であっても、この罪を根絶やしにすることはできない。この理由から、資本主義は「堕落した世界」を現実の土台とし、その上で「エネルギーを創造力に転換する」ことに成功した」
というマイケル・ノヴァクの引用が、この書の現実認識の至高なのだが、
「これまでに判明した世界のどの文明の歴史においても、現代以上にゆたかだった時代はない。だからもう物質的な快適さはよしとし、物質的繁栄がもたらす幸福を躍起になって追い求めるのはやめなければならない。なぜなら、物質的目標を追求する経済政策は、必ず借金へと突き進むことになるからだ。つねに借金を背負っていたら、経済危機によって被る痛手では一段と深刻になる。次の危機が襲ってくる前に、借金は早いところ返してしまうのがよい。」
というのが著者の提言である.
あれれ何のために哲学を検証したのだろう.

今の高度資本主義あるいは市場経済主義は、世の中の資金を集めてモノを生産するという仕組みを遥かに越えていて、マネーという「情報=データ」が、世界を呑み込んで分裂増殖を繰り返すという域に達している.
そこでは、バブルも借金もコンピュータ上のデータである.
この妙ちきりんな世界に私は強い興味を感じるのだが、セドラチェクは、このレベルの話には全く触れない.
経済モデルや数式や言語といった「架空」の概念は「現実」ではないという著者の認識は、哲学的な知見からは逆で、人間が生み出す架空の概念こそが人間の現実なのであり、それに誤りや齟齬があるというのは、認識そのものが一つの誤りであり齟齬なのである.
「物質的繁栄がもたらす幸福」というのは、モノがあることではなく、ものを生み出すエネルギーを言っている.
善と悪とは、それを解釈する人間のエネルギーの序列のことである、とニーチェなら言うだろう.
生命とは、世界から贈与=借金として与えられたエネルギーであり、だから「借金は早いところ返してしまうのがよい」というのは、私には、ニンゲンは早く死ぬのがよい、と言っているように聞こえる.

私は、この著者はてっきり老人だと思って読んでいたが、最近来日したその写真を見てびっくりした.
39歳の若人である.


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