錆びたナイフ

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2016年4月15日
[本]

「ニーチェと哲学」 ジル・ドゥルーズ

「ニーチェと哲学」


映画「ディア・ハンター」で、ロバート・デ・ニーロが、銃をもてあそんだ仲間のジョン・カザールに、銃弾を一発こめた銃をつきつけ、ロシアンルーレットのように引き金を引く.
ドゥルーズが言う「骰子(さいころ)の一擲(いってき)は生成を肯定し、また生成の存在を肯定する」とは、こういうことだろう.
銃弾(たま)が出たらどうしようと、考えないのである.

ニーチェは100年ほど前の人なのでいわば現代人だが、「太古の人」ではないかと思わせるのは、洞窟に住んで鷲と蛇が友達だという、あの、ツァラトゥストラのせいである.
彼の前に現れるのは、預言者、二人の王、蛭人間、魔法使い、最後の教皇、もっとも醜い人間、自ら進んで乞食になった者、そして影である.
いや、ライオンもサルもいるし、道化師も悪魔もロバもラクダもいる.
まるでロールプレイゲームのような登場人物の「意味と意図」が、ドゥルーズのこの書で解き明かされる.
(たぶん)巨大な体軀にボロをまとい、眼光けいけいとして、常に遥か彼方を見ていたツァラトゥストラは、凡庸な人間がキライで、よく「否!否!三たびまで否!」などと叫んでいた.
あまりオトモダチになりたい人ではない、かというとそうでもない.
よく笑い、よく遊び、よく踊り、賭け事には滅法強かった.

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の中で「不具者」たちが、われらを癒してほしいと言う.
病者は病をもって生きる術をあみだしている、病を除けばお前たちは凡庸となり、それは害悪である、とツァラトゥストラは答える.
さらに、民衆はそのことを知っているので、不具者を迫害するのは民衆の「知恵」であるとまで言う.
ニーチェは、我々の「道徳」とは真逆のことを言う.
「神々は死んだ。しかし神々は、或る神が「我こそ唯一の神である」というのを聞いて、笑い死にしたのだ」
かくて、ハンマーをもって哲学するごとく、ニーチェの言葉は人の心に突き刺さる.
ドゥルーズは、ニーチェの警句と詩篇の根底にある意味と意義を、熱烈に再構築してみせる.

「キリスト教にとって生は正当ではなく、本質的に不正でさえあり、苦悩によって本質的不正を償うということを意味している。つまり、生は苦悩するがゆえに有罪である」
「怨恨(ルサンチマン)は「それが君の過ちだ」と言っていたが、疚(やま)しい良心は「それは私の過ちだ」と言う。しかし、まさに怨恨は、自分の伝染が広まらない限り鎮まることはない。怨恨の目的は生全体が反動的になり、健全な者が病者になることである」
「怨恨、疚しい良心、ニヒリズム・・・それらは人間存在そのものの原理なのだ」

ドゥルーズはF・ガタリと共著の「アンチ・オイディプス」もそうだった.
何を言っているのかワカラナイのだが、めくるめく面白い.
私はそれは、思想が持っているチカラだと思う.
ドゥルーズの文章は比較的読み易いが、彼が語るニーチェの言葉は、喉元まで出た記憶のように難解である.
「力は意志と呼ばれ、意志は意志にだけ作用できる。 身体は多様な現象であり、還元不可能な多数の力から構成されている」
「身体の統一性は多様な現象の統一性、「支配の統一性」である。 身体において、高次のあるいは支配する諸力は<能動的>と言われ、劣等的なあるいは支配される諸力は<反動的>と言われる」
「或るものの意味とは、この事物とこの事物を奪取している力との関係であり、或るものの価値とは、複合的な現象としてこの事物のうちに表現されている諸力の序列である」
序列、高貴、下劣、主人、奴隷、超人といったおよそ「論理」とかけはなれた言葉が出てくる.
「差異は幸福であること、<多>、生成、偶然はそれら自身で喜びの充足的対象であること、喜びだけが回帰すること・・」
永遠回帰とは、人間が生きて前に進むその「一歩一歩」のことだ.

で人間はどうなるのか?
夜中の十二時に、シンデレラの馬車がかぼちゃに変わるように、人間が乗り越えられ、この世界そのものつまりニヒリズムが、「価値変質」を起こす.
それは、馬車の矛盾がかぼちゃに「止揚」されるのではない、氷が水になるように「相転移」するのである.
そうして誕生するツァラトゥストラの子「超人」とは、今だ誰も到達せず、見たこともない、人間に非らざるニンゲンだという.
しからばこの書は、その主を探すべきガラスの靴なのだろう.
ツァラトゥストラは言う「君たちは出来損ないである」

ロバは「イ・アー」然(しか)り、と鳴く.
天才バカボンのパパは、
「これでいいのだ!」と言う.


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