錆びたナイフ

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2015年11月12日
[本]

「枯木灘」 中上健次

「枯木灘」


秋幸(あきゆき)は二十六歳、母の再婚相手の土建屋で道路工事の人夫をしている.
紀州の、海と山に囲まれた狭い土地で、異父異母の兄弟姉妹、従姉妹(いとこ)や再従兄弟(はとこ)、系図がなければ理解できないほど登場人物の血縁が絡み合っている.
古代から続くこの土地で、黙々と土方仕事に明け暮れ、得体の知れない激情を抱えているこの男、ドストエフスキー「罪と罰」や、高村薫「マークスの山」を彷彿とさせる.

町には、秋幸の実父がいる.
悪辣で知られるその男の存在が、黒い影のように物語につきまとう.
自分の中に、その男の血が流れているという思いが、地底のマグマのように、この物語の骨格になっている.
時に主語が不明なまま、ポロポロ放り出すような文章.
一度読み出すとやめられない異様な迫力があるのだが、不思議なことに、描いているのはごく日常的なことだ.
作者が「路地」と呼んでいる部落と、近隣の小さな町で、秋幸とその親族たちの生活は、陰惨であるとも、平和であるとも言える.
部落に流れる噂話は、チンピラまがいの若者たちの小競り合いや「その男」の異母弟妹との確執や諍いと一体になる.
「秋幸はまた働いた。身を屈めコンクリを張る自分の影が動くのを見た。大きなものが見ている気がした。形を現わさないものだった。いつか必ず形をあらわすと思った。」
何かが起こるという重苦しい予感.

母や姉やその姉妹たちが繰り返す愚痴と噂と呪訴から、主人公とそれを取り巻く家族の人間像が浮かび上がる.
それぞれが多難な戦後を生き延びてここまで来た、過去の細々とした事件が棘のように乾いて、秋幸に引っかかる.
「郁男(秋幸の異父兄)は何度も包丁や鉄斧を持ってやってきた。洋一の里親で繁蔵の弟の文造は酒を飲んでやってきた。郁夫は自殺した。美恵(異父姉)は気がふれた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父と子と、母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」
なぜ済まされないのか、わからない.
過去にとらわれることでしか人間は存在できない、とでも言うように、主人公はどこへも飛翔できない.
これは、ドストエフスキーの宗教的な救済とは無縁の、70年代のある種の熱病か白昼夢で、いつかどこかで、醒める.

物語は、秋幸の偶発的な殺人事件で終る.
ダースベーダーがルーク・スカイウォーカーに囁く.
「I'm your father, my son, This is your destiny.」
この、ゾクゾクするような「父親殺し」への絶望と嫌悪.
この作品枯木灘は、熊野サーガとも呼ぶべきファンタジーなのだ.


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