錆びたナイフ

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2015年9月7日
[落語]

「千両みかん」 古今亭志ん生

「千両みかん」


"千両だよ"

ある大店の息子が病気になり、何か望んでいることを叶えれば快復すると医者が言う.
店の主人は番頭に、倅(せがれ)の願いを聞いて来いという.
こういうことに番頭が担ぎ出されるのは落語の常である.
息子は「みかんが食べたい」という.
なぁんだそんなこと、番頭はみかんを持ってくると請け合う.
だが、夏場にみかんはない.
主人は、もしみかんが見つからなくて息子が死んだら、番頭を息子殺しで訴えるという.
必死でみかんを探す番頭の姿がとても可笑しい.

ある問屋で、蔵の中を探してみかんが一個みつかる.
番頭がいくらですかと聞くと、
「千両だよ」という.
番頭、びっくりして主人に伝えると、
「安い!」「倅の命が千両で買えるなら安い!」という.
この展開がすごい.

番頭の前で息子がみかんを食べる.
十袋(房)あって一袋が百両.
三袋のこして、お母さんとお父っつぁんとおばあさんにあげておくれと言う.
番頭、その三袋のみかんをじっと見て、自分が年季を勤め上げてもらえるのは高々三十両、ええいままよと、そのみかんを持って逐電した、というのが落ち.
ジェットコースーターを滑るような価値観の変転.

需要と供給で商品の価値が決まる、というだけではない、人間の生き様の力学で、ものの価値が決まるのだ.
みかん一個に千両の値をつけたこの問屋も、千両なら安いと買った主人の店も、実はその後繁盛したのではないかと思う.
江戸の町人たちにとって、これは格好の話の種、絶好の宣伝材料である.
マルクスが、商品の価値はそれに注がれた労働時間で決まる、と説いたのは江戸時代末期のイギリスである.
「千両みかん」は、それを遥かに飛び越えたバブルの話だ.
畢竟人生は、そもそもバブルでなくて何であろう.

古今亭志ん生という人は、どこか天性の子供のようなところがあって、深刻な話に軽妙さがにじみ出る.
一瞬の間で「千両だよ」と言い放つそのセリフは見事で、なにやら目も眩むような世界が吹き抜ける.
落語はJAZZと同じで、あの日あの時の演目は、何回聴いても面白い.


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