錆びたナイフ

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2015年6月29日
[本]

「菊と刀」 ルース・ベネディクト

「菊と刀」


「礼儀をわきまえているという点で他の追従を許さない」が、「その反面、思い上がった、態度の大きい国民である」
「頑固さにかけては比類がない」が、「最先端の思想や制度に進んで順応する」
「節操があって心が広い」が、「その反面、二心があって執念深い」
「まぎれもなく勇敢である」が、「小心翼々としている」
これらの矛盾はすべて真実である、と著者ベネディクトは言う.
この書は、70年ほど前に書かれた、もはや古典的な日本人論である.

「日本軍と日本本土に向けた宣伝において、わたしたちはどのようなことを言えばアメリカ人の命を救い、日本人の徹底交戦の決意をくじくことができるだろうか。
 戦争が終わった後、日本の秩序を保つために、半永久的な戒厳令が必要になるのだろうか。
 米軍は山中の隠れ処を見つけるたびに、決死の抵抗試みる日本兵と戦うことを覚悟しなければならないのだろうか。」
アメリカはその功利主義と合理性をもって、戦中戦後の日本人に対峙しようとした.
その基礎となった論文である.
アメリカ外国戦意調査課は、日本人捕虜の尋問調書、日本の新聞・雑誌、映画、ラジオ放送、小説など多岐にわたる資料収集を続け、ベネディクトは、一度も来日することなく、それらの資料をもとにこの論文を書いた.
その論旨は、日本人より日本人を分かっていると思わせる.
近世から大戦までの日本史の理解も的を射ており、見事としか言いようがない.

ベネディクトは、「恩」や「義理」や「恥」といった概念が、日本人の生活の中でどのように機能し、軍人ばかりでなく庶民の行動を規制しているかを丹念に論証している.
しかし今、義理と恩の違いと問われて、上手く答えられる日本人はいるだろうか.
もはや日本人なら誰でも知っているとは言い難い「忠臣蔵」や「勧進帳」に関して、ベネディクトは正しい理解をしているが、日本人だれもが、大石内蔵助や義経のように生きたいと思っていたのだろうか.
軍人勅諭や教育勅語への信奉はとうに消滅したのだが、我々は戦後70年を経て、何を失い何を得たのか、遥か彼方へ来てしまった、という思いにかられる.

「日本人の見解によれば、強い人というのは、個人の幸福にこだわることなく、おのれの義務を果たす人のことである。性格の強さは、逆らうことではなく従うときに示される。」
「アメリカ人を善行にみちびく強力な強制力は、罪の意識である。良心が麻痺したために罪を感じなくなった人は、反社会的な存在となる。
 (しかし)日本人の哲学によれば、人間は心の奥底では善なのだという。内なる衝動が直接行動となって具現化するとき、おこないはよいものになる。」

ベネディクトは、戦前/戦中から敗戦/占領への日本人の豹変を、その幼児期の育ち方に遠因がある、と見ている.
「日本人の人生の曲線はアメリカとは逆の形を描く。それは大きな、底の浅いU字型の曲線である。
 最大の自由と我儘が許されるのは、曲線の両端に位置する乳幼児と老人である。制約は乳児期を過ぎる次第に増し、したいことをする自由は結婚前後に底に達する。
 曲線の谷は壮年時代に何年も続く。そして六十歳を過ぎると、恥の意識にとらわれることはなくなる。ちょうど、子供と同じように。
 アメリカでは、・・厳しくしつけられるのは幼児である。力がそなわるに従って、しつけは次第にゆるめられる。
 やがて人は自活するための仕事を得て、自分自身の所帯を持つと、自分自身の生活を営み始める。壮年期はわたしたちの場合、自由と創意が最高潮に達する時期である。」

利他的であることが結局自分にも利益になる、という義理や忠義の基本ルールが、自分に利益がないからこそ義理を貫くというふうにひっくりかえり、さらに誰の利益にならなくてもつらぬくという不条理に化ける.
それは状況が変われば、憑き物が落ちたように消える.
幼児期に自らの生を全的に肯定されたという記憶が、それを支えている.
乳を欲しがって泣くのではない、泣くために泣く幼児の衝動が、日本人の行動と倫理の基礎にある、とベネディクトはみている.
それはそもそも「利益/不利益」ではない、「生物」が「世界」にあることの根源的な衝動なのだが、ベネディクトは終始「社会」だけをみている.

かくて著者が最終章で述べる戦後日本への洞察は、驚くほど正鵠を射ている.
「日本人は現在(1946年当時)、軍国主義が輝きを失ったことを知っている。日本人は、世界のほかの国々においても事態は同じなのだろうかと、目を凝らして見守ることだろう。
 もし同じでないとすれば、日本がふたたび好戦的な情熱を燃やす可能性がある。そして事に加担する力があるということを誇示するであろう。」


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