錆びたナイフ

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2015年6月12日
[本]

「悪魔祓い」 ル・クレジオ

「悪魔祓い」


オカルトの本でも、中米インディオの「悪魔祓いの儀式」を描いた本、でもない.
文化人類学的な実証や考察というより、インディオたちの生活の中でその世界認識の方法をたどり、著者クレジオは、そこに現代社会が失ったビジョンをみている.
単なる自然回帰や文明批判ではない、クレジオはもっと真剣なのだ.
この本には、インディオたちが作る道具、楽器、矢、籠、人形などに描かれる模様、入れ墨、密林のカエル、それらの写真と、現代社会(60年代)のコマーシャルアートなど多くの図版が混在して出てくる.
インディオたちの「作品」はシンプルで力強く、最先端のアートやごく日常的な道具を並べれば、インディオも西欧も区別がつかない.
しかし、インディオたちが作るのは「紋様」であって「文字」でも「絵画」でもない.
森には「看板」のように「表現されたもの」は何一つない.
森にあるのは、紋様であり、聞こえるのは言葉ではない、声だ.
かれらが森に見ているのは、生命と自然が重層的に織りなす「存在の声」なのだ.
クレジオは、現代社会が愚劣でインディオたちの社会が崇高だと言いたいのではない.
「インディオたちの世界だってわたしたちの世界と違うわけではない。ただ彼らはその世界に住んでいるのに、わたしたちは、まだ亡命中なのだ。」

インディオたちの特異な歌声を通して、愉楽や自己解放ではない表現がこの世にあること、文字以前の、言葉以前の言葉が我々の身体の中にあることをクレジオは訴える.
「インディオは歌う。それは呪術なのだ。
 インディオにとって無益な創造と言うものはなく、芸術のための芸術はない。ただ機能があるだけである。」
「呪術の儀式、それは舞踏でも娯楽でもなくて労働である。」
人間は理性を持ち、あまたの動物たちとは別格であるという教えと、人類の文明や知性は進歩してやまないとする発想の先で、クレジオは、網の目のようにからまった原因と結果の価値観を一旦解体しようとする.
西欧現代社会から何を取り除けば、インディオの世界に戻れるのか.

「夢想の世界、ひそかな欲望、恐怖、酩酊と死の世界。その世界が、現実とほとんど分かちがたいほどごく間近に、そこにある。その世界に達し、それを見るためには、人間の創造にかかわるこのわずかな変化で充分なのだ。」
ああだから、それが見えているのだ.
せめぎ合った生と死がそこにあるのに、誰もそれを見ようとしない.

「夜の闇のなかで、ひき蛙の鳴き声が止まない。
 恐怖をうち壊し、死をうち壊す執拗な鳴き声、呪術的な鳴き声。ひき蛙ははいたるところにいる。
 彼らは、ただ鳴き声をあげるために、世界のなかに、夜のなかにひろがっている。
 彼らは動かない。姿を現さない。彼らは生き、死ぬことがない。」
カエルは、縄張りを主張するために、あるいはメスを呼ぶために鳴く、のではない.
鳴くことで、縄張りを作り、鳴くことで、オスになる.
つまり、鳴くことでカエルになる、のである.
インディオが体現しているのは、そういうことだ.
声は、存在そのものであり、「意味」をもっていない.
言葉は、意味を作り出し、神話と国家と目的と「本質」を生み出す.
クレジオは、本気で、ひき蛙になろうとしているのだ.


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