錆びたナイフ

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2015年5月25日
[映画]

「ソーシャル・ネットワーク」 2010 デヴィッド・フィンチャー

「ソーシャル・ネットワーク」


冒頭、主人公マーク(ジェシー・アイゼンバーグ)とガールフレンドが話をしている.
とんでもない早口である.
この若者はハーバード大学の学生で、成績が良くて頭の回転が早くて自信家で人を人と思わぬ鼻持ちならない男、という雰囲気がビンビン伝わってくる.
彼女に、あんたがもてないのはコンピューターオタクだからじゃなくて性格が悪いからだ、と喝破される.
腹立ちまぐれに彼は、女子寮のデータをハッキングし、ネット上で、どっちが美人かと投票するシステムを作って悪名をはせる.
やがてFacebookを起業するマーク・ザッカーバーグの話である.

マークの顔には、どこか地球の外に住んでいるような「うわの空」感がある.
この、しらっとして不安と熱望に突き動かされた顔は印象的で、ツン抜けた小気味良さすら感じる.
大学のサーバーをパンクさせたマークは、その査問委員会でも悪びれた様子もなくズケズケとものを言う.
そういう人間に対して、アメリカ社会はどこか鷹揚で、彼を評価する人間が現れる.

マークは、次から次へとアイデアを自分のシステムに投入する.
彼は、自分より頭が悪くてもたもたしているような人間はガマンガならない、といった態度をとる.
他人を見下しているわけではない.
この世が、愛や親和で成り立っていると考えることに興味がないのだ.
自分が人々とともにこの世にいる、などとは毛頭考えない.
生まれ落ちた理由は、とりあえずキーボードで世界を変えることだ.
自分にはそれができる.

マークと友人のエドアルド(アンドリュー・ガーフィールド)が作り出したシステムFacebookは、急速にユーザーを増やしていく.
ナップスターを立ち上げた若手の起業家ショーン(ジャスティン・ティンバーレイク)と出会うことで、マークの行動は一挙に舞い上がる.
この、自信にあふれたパラノイア男のショーンが面白い.
一昔前ならこういう謙虚さの欠けた人物は敵役だったのだが、今はメフィストフェレスかトリックスター、かっこいいのだ.
エドアルドは一人でスポンサー探しに駆け回るが、マークとショーンはその先を行っていた.
ネットビジネスは、その利用者が巨大になると、利益を得る前に資金が集まる.
それは、そのシステムが優れているとか社会の役に立つとかではなく、投資家が注目し、株価が上がると思われるから、資金が集まるのである.
エドアルドは騙されるように解雇され、彼はマークを訴える.
マークは、Facebookの発案は自分たちだという他の学生からも告訴されている.
20代で起業するということは、成功と裏切りと訴訟に首まで浸かるということだ.
映画は、査問会や裁判の展開を通して、システムを立ち上げる彼らの熱気と、あっという間に世界を巻き込んで巨大化するビジネスの中で、相変わらず傍若無人な主人公を見事に描いている.

この学生たちを見ていると、まるで熱いトタン屋根の上の猫のように、実はとても苦しいのではないか、と思う.
熱病のような青春は、ケルアックの小説「オン・ザ・ロード」の、ディーン・モリアーティを思い出す.
いったい自分に何ができるのか.
コンプレックスとヒポコンデリーの坩堝.
人生は毎日が、つまり祝祭でなくて何なのだ.

この映画に登場する女性たちは、なぜかまったく魅力がない.
10代から競争とビジネスに狂奔し、さて年老いた彼らは、やはり家族に回帰するのだろうか.


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