錆びたナイフ

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2015年4月25日
[本]

「イェルサレムのアイヒマン」 ハンナ・アーレント

「イェルサレムのアイヒマン」


ドイツ第三帝国ゲシュタポのユダヤ人課課長アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人大量虐殺の首謀者の一人として、逃亡先のアルゼンチンからイスラエルによって拉致され、1961年エルサレムで裁判にかけられた.

アイヒマンはユダヤ人「移送」の専門家であり責任者だった.
ヒットラーの人種差別政策の下で、ナチスはドイツと支配地域のユダヤ人、ジプシー、社会主義者、障害者を集めて強制収容所に移送した.
最後はガス室で殺してしまうことになるこの一連の政策を、ナチスは「最終的解決」と呼んだ.
軍隊がその戦闘の過程で民間人を殺したというのではない、何百万人もの人間を選別し一斉に殺すという作業は、全国民を動員しなければ実現しない巨大プロジェクトである.
アイヒマンは、彼の貨車で運ばれる人々が最後に殺されることを知っていたが、彼は移送事業に支障が出ることにだけに「良心」の痛みを感じた.
アイヒマンは言う.
「私はユダヤ人を一人も殺さなかったし、またついでに言えば非ユダヤ人も一人も殺していない・・私はユダヤ人を殺せという命令も非ユダヤ人を殺せという命令も一度も下さなかった」

アーレントの文章はひどく読みにくい.
それはその思想の難解さのためではない.
著者は苛立ち混乱しているのだ.
なぜこんな男が六百万人の人間を殺すことができたのか.
「彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力ーーつまり誰か他の人の立場に立って考える能力ーーの不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意思の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機能[すなわち想像力の完全な欠如と言う防衛機能]で身を鎧っているからである」
検事も判事も、アイヒマンに良心があるのなら、国家の非道な命令に反抗すべきであったと主張するが、アイヒマンは、国家や組織の指示に誠心誠意取り組むのが自分の義務であり、それが結果的にこうして非難されるのは、自分の努力が組織に利用されたからだと考えている.
アーレントは地団駄を踏む思いだったのだろう.
「アイヒマンはアルゼンチンでもイェルサレムでも自分の犯した罪を進んで認めたが、この驚くべき率直さは、彼自身の犯罪的な自己欺瞞能力よりも、第三帝国の一般的な、しかも一般から受け容れられている雰囲気をなしていた常習的な欺瞞の風潮に由来するものだった。」
「その過去においては彼(アイヒマン)と彼の生きている世界とは完全に調和していた・・・そして八千万のドイツ人の社会は、まさに犯罪者達と同じやり方、(仲間同士の)同じ自己欺瞞、虚言、愚かさをもって、現実と事実に対して身を守っていたのであった。」
アーレントは、この「社会」のカラクリに踏み込まなかった.
まるで捨てゼリフのようなこの本の副題「悪の陳腐さについての報告」は、彼女が、ナチズムのような愚かさは自分たちには無縁だと考えていることを表している.

ハンナ・アーレントはユダヤ人であると同時に一人の知識人としてこの裁判を見つめ、彼女の頭の中にはヨーロッパの民族の歴史が渦巻いた.
当時国家が存在しないゆえにイスラエルが参加しなかった戦後のニュールンベルグ軍事法廷は、正当だったのか.
ニュールンベルグ裁判で戦勝国が裁いたのは、畢竟敗戦国の戦争犯罪だけではなかったか.
自国内の特定民族を抹殺しようとする行為は「戦争犯罪」と呼べるのか.
他国から拉致したドイツ人であるアイヒマンを、イスラエルで裁くことに正当性はあるのか.
ナチスの支配地域の拡大はヨーロッパ中にホロコーストの暴虐を広めたが、それはドイツの軍事的な圧力だけが原因ではない.
ユダヤ人から財産と権利を奪い国外に放逐するという政策に便乗する国と、追い出されたユダヤ人を受け入れる国とがあったのである.
さらに、ユダヤ人をその住居から実際に駆り出したのは、ナチスの方針に従って輸送者名簿を作成したユダヤ人評議会である.
「ユダヤ人が暮らしているところはどこにでも、一般に認められたユダヤ人指導者が存在したのだ。しかしこれらの指導者ほとんど例外なく、何らかの形で、何らかの理由で、ナツィと協力したのだった。」
これらのことを問わずに、このイェルサレムのアイヒマン裁判が見世物や復讐劇でないという根拠は何か.

アーレントは裁判の展開に平行して、アイヒマンとナチスの政策がヨーロッパで為した惨禍をたどってみせる.
その視点は広範で公平だが、
「この裁判は他の何もののためではなく、正義のためにこそ開かれねばならなかった」
と言う彼女がたどり着いた結論は、意外なほどあっけない.
「政治においては服従と支持は同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む政治を君(アイヒマン)が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」
まわりくどい言い方だが、アイヒマンがユダヤ民族を殺すことに加担したから絞首刑にする、と言っているだけだ.

判事もアーレントも、アイヒマンに良心はあるのかと問うた.
彼らはアイヒマンの中に悪の根源を探そうとしたが、しかし悪と呼べるものがあるとしたら、それは人間の関係の中にしかない.
戦争であろうと平和であろうと、悪辣であろうが凡庸であろうが、ヒトは、時と場合によって人を殺す.
人間の暴虐な振る舞いを防ぐ手立ては、社会の人間のごく日常的なふるまいから、他人の存在を圧殺する契機を見抜いてそれを阻止していくしかない.
立法は人が善人か悪人かを裁定するのではなく、人の為した行為を裁くのに過ぎない.
アイヒマンの悪が陳腐というなら、それを裁く正義もまた陳腐である.
民族と国家は、大義のために平然と他民族を殺す、アイヒマンのような人間を産む契機を常にはらんでいる.
それはイスラエルも例外ではない.


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