錆びたナイフ

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2015年1月26日
[本]

「一神教と国家」 内田樹、中田考

「一神教と国家」


武道家内田樹とイスラーム学者中田考の対談.
1日で読める.
回教徒でもある中田の話が面白い.

中田は、「アラブの春」が目指したのは西欧流の民主化ではなく、イスラム原理への復帰である、と言う.
「イスラームの場合は、人の内心はわからないと考えるんです。だから干渉しない。イスラームには教義決定機関がそもそもありませんから、キリスト教的意味での正統と異端という概念はありえません。」
「よくも悪くも、キリスト教の西欧文化は人間の内面に精神というものがあると考える。確固としてあると考える。それをすごく重視する文化です。
一方、イスラームではあまりそういうことは考えません。と言うより、そもそも内面に最初から悪魔とか悪人とかいろんなものが入っていると考える。それが当たり前だと考える。」
「かつては擬似宗教的に人々の連帯を作るものとして共産主義がありましたけれど、今はそういう動きはありません。・・・現在の世界秩序のおかしさに抵抗していく力としては、私はイスラームしかないと考えるのです。」

中田の思いは、イスラム原理主義のテロリズムとは一線を画していて、世界16億人のイスラム教徒がカリフ制の元にまとまれば、地域国家を超えて、グローバリズムに対抗する人間的な世界を構築できる、と言う.
宗教を超えたはずの科学や合理主義をもってしても、人間社会が不合理であり続けるのなら、宗教が息をふきかえす.
アダムの末裔だけでなく、仏教でも儒教でもヒンズー教でも、その原理は人間と世界の平安を説いているが、宗教が宗派間の争いを超えられたためしはない.
科学は、論理と実証という共通認識を辛うじて保っているが、宗教は寛容か排除か、それ以外の対話の道を持っているのか.

「紙幣は記号ですから実体から遊離すると偶像に堕します。純粋な記号の数字だけの電子マネーはもっと露骨な偶像です。ゆえにそういうものの暴走は許さないというのが基本的なイスラームの考え方です。」
中田のこういうチープな理屈に、フランス思想の大学教授であった内田が反論しないのが不思議だ.
内田は「世界秩序のおかしさ」はアメリカのグローバリズムが元凶であると考えている
「世界のフラット化は、欲望の標準化を目ざします。グローバル資本主義の理想は、世界中の人が同一の商品に対して同一の欲望を抱くことだからです」
「世界中の人々が英語を話し、ドルで売り買いし、同一の商品に欲望を抱き、「金があるやつがいちばん偉い」という価値観を共有する時に初めて経済のグローバル化は完了する。」
内田先生、まるで「鬼畜米英」と言わんばかりである.

「資本主義」というのは、経済制度や政治制度のことではなくいわば「欲望機構」であり、聞こえが悪ければ「生きる仕組み」と言い換えてもいい.
だから人間社会である限りそれは千変万化し、資本主義がモンスター化した消費社会もマネタリズムも、人類が繁殖し続けることと等価なのだ.
「金儲けは卑しい」といった十把一絡げの好悪や倫理を持ち出してどうするのだろう.
それを中田の言う「吝嗇は最大の恥である」と言い替えても同じことだ.
こういう発想もまた「資本主義」なのだ.

イスラムは、ほんとうは何を言いたいのか.
民主主義という名の愚衆政治に対して、「神を畏れよ!」と言いたいのだ.
宮沢賢治の童話「猫の事務所」の最後に出てくる獅子のように、
『「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要(い)つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
 かうして事務所は廃止になりました。』


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