錆びたナイフ

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2015年1月14日
[本]

「死霊」 埴谷雄高

「死霊」


いつか読むだろうと、39年前に購入した本「しれい」
著者・埴谷雄高(はにやゆたか)が半世紀に渡って書き続けた小説を、この本は第五章までの定本としている.
作品はその後、九章で未完となった.

ほとんどが登場人物の議論とモノローグ.
ドストエフスキーか夢野久作か?、暗い静寂と想念に満ちた世界.
事象の一瞬を顕微鏡で覗くように、人物の微妙な表情の変化を辿って、時間と空間が奇妙に歪んでいる.
中盤は延々と霧の中を彷徨い.
終盤、死にかけていると思われた主人公の兄が口を開き、夢から現れた死者との対話を再現する.
存在の宇宙的愚痴.
「いいかな、この世は、ぷふい、と、あっは、なのだ!」
ドラマチックなストーリー展開はなく、この長大な小説で描いているのは主人公三輪与志の1日の行動にも満たない.
この小説は音楽に似ていて、例えばメシアン「世の終りのための四重奏曲」のようだ.

「生命」とは「環境に異をなすもの」である.
暑いとか寒いとか眠いとかお腹がすいたとか・・
赤ん坊からキリギリスまで、世の中に存在するとは、そうでない世界を求めること、違和の中で身じろぎすること、「私は違う」と言い続けることである.
赤ん坊がむずかって泣き出す時の底知れぬ微動を、作者は「不快」という名前で引き出す.
それは、生きるための「起動力」であり、意識と認識の核でもある.
「私が私である、という表白は、如何に怖ろしく忌まわしい不快に支えられていることだろう」
埴谷雄高は、発生した全てのものは泣いていると言う.
いや、泣いていても歓喜にうちふるえていても、同じなのだ.
作者はこの世が「愛」や「哀れみ」や「親和」でできているとは考えない.

<自同律の不快>とは、要するに熱力学の「エントロピー」のことである.
全宇宙が、絶対零度へ収斂することに歯向かい、微動し、喘ぎ、百万度で核融合する恒星が生まれ、体温37度の赤ん坊が生まれる.
「未出現」とは、脈動して対消滅を繰り返す「真空のエネルギー」のことである.
存在する全てのものの夢を集めたものが「虚体」であるなら、「宇宙背景放射」の3°Kは、宇宙の夢の残渣<私語する無数のざわめき>なのだ.
「実現した夢は全て誤謬である」なら、自己から自由になる時とは、夢想が終る時、つまり宇宙が加速膨張して全ての光が「どこにも届かなくなり」、因果関係が消滅する時である.
数学で自然を記述しそれを演繹することで世界を解釈する宇宙論と、言葉をもって作者と読者の想像力をかきたてる文学は、最後に、息も絶え絶えの「記号」だけをそこに残す.

「埴谷雄高」

「埴谷雄高・独白「死霊」の世界」というテレビ番組があった.
1995年に放送された当時、NHKはよくまあこんな番組を作ったと感心したが、首を揺すりながら喋る埴谷を見て、三遊亭圓生にそっくりだと思った.
このビデオは今YouTubeで観ることができる.
当時のテレビ画面を古いビデオカメラで再撮したのだろうか、茫洋とした画面にテロップがふわふわと浮かんで、なんとも不可思議な雰囲気をただよわせている.
低く暗い音楽と、国井雅比古アナのナレーションと、蟹江敬三の朗読が絶妙で、実を言えば、あまり卓抜とは言えぬ埴谷の文章を読むより、このビデオの方が面白い.
埴谷雄高は着流しで、グラス片手によく喋る.
「ああた(貴方)、人類を救えるのは文学だけですよ」


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