錆びたナイフ

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2014年12月18日
[本]

「捕食者なき世界」 ウィリアム・ソウルゼンバーグ

「捕食者なき世界」


著者ソウルゼンバーグは科学記者.
かつてどこにでもあった草花や小動物が消えて、景観が変わる.
それは少しずつ変わってゆき、人はある日突然気がつく.
いったい何が起こっているのか!
それは、頂点捕食者がいなくなったせいだと、著者は半世紀をこえる生物学者たちの研究と論争と、それらにまつわる社会の動向を追う.
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思わせる、著者の筆力は広範囲で興味深く、優れたドキュメンタリー番組を観ているようだ.

頂点捕食者(トップ・プレデター)とは、食物連鎖の頂点に位置する、オオカミ、ライオン、クマ、ワシなどの肉食獣のことで、それは場所によってはヒトデやラッコでもある.
生物学者たちは粘り強い調査で、頂点捕食者がその生態系の多様さの維持に大きな影響力を持っていることを解き明かしてゆく.
オオカミがいなくなると、鹿が増え、鹿が食べる木や草が減るだけでなく、減った草木に依存していた小動物もいなくなる.
その上、増え過ぎた鹿も食物が不足しやがて飢餓におちいる.
残るのは荒廃した環境、つまり生物種が減って多様性が失われた世界である.
自然の事象は多くの要素が絡み合い、原因と結果が連鎖している.
目先だけの思い込みで「害獣」を駆除すれば、それは予想外の結果を生む.
長い議論と啓蒙の果てに、イエローストーン国立公園にオオカミを復帰させる試みで、この考え方は実証された、という.

「サハラ以南のアフリカでは・・ライオンやヒョウがいなくなった広い地域を、化け物じみたヒヒの集団が占領し始めた」
「上位の捕食者が消えた場所では、それより小さな下位の捕食者の一団が勢力をのばし、十倍にも数を増やして好き勝手をするようになる」
生物学者が調査すればするほど、海でも陸でも生物の多様性は激減している.
イエローストーンの試みは、焼け石に水のわずかな成功例に過ぎない.
今、絶滅に瀕した鳥や動物を保護しようとする動きは世界的に広がっているが、著者はさらにはるか先を目指す.
環境を人類が現れた頃まで戻さなければ、困るのは絶滅危惧種と生物学者だけではない、全生物なのだ、と.
そのために、ヒトや家畜に危害を及ぼしうる「猛獣」を復活させるばかりでは足りない、数万年前にアメリカ大陸に生存し、人類に滅ぼされたマンモスのような大型動物の代わりに、象やライオンをアメリカの野生に放てという提案まで紹介する.
豊かな環境を復活させたいという願いよりも、子供や家畜が猛獣に喰われてもいいのかと、けんけんごうごうたる非難が巻き起こる.
環境保全は、人間の生活の利害と、野獣への恐怖と嫌悪のせめぎ合いにすり替わる.

「補食によって弱い個体や病気の個体が除かれるので、一見有害に見える捕食者の存在が、長い目で見れば種にとって有益になる・・オオツノヒツジは・・その平衡状態を保つには、オオカミのような環境からのストレスを必要としている」
オオカミが鹿を襲って食べるというだけではない、食べられるかもしれないという状況が鹿の行動を決める.
襲うものがいないという世界は、実は鹿の本来の生き方を狂わせるのだ.
人間は本来トップ・プレデターではない.
この「二本足の動物」は、自らその捕食者を駆逐し、「弱肉強食のケモノたち」とは別の世界を作り出し、今、環境を激変させ、急激に増殖している.
しかし、自然の中の「弱肉強食」は、弱いものの惨劇と強いものの謳歌ではなく、そのことで、弱者も強者も全ての生物の生存を保障しているのだ.
著者は、復活させる猛獣と人類が共存する道を探る過程で、ほんの一瞬だけ、人類が何万年にも渡って育んできた心の中に踏み込む.
そこの茂みに我々の捕食者がいるなら、世界は一変する.

一万年前にはいたチータがいなくなった現代アメリカの草原で、
「疾走するプロングホーン(駿足の鹿)を見ていると、消えた捕食動物たちのことが思い起こされ胸が痛くなる。 土煙をあげてがむしゃらに走るのは絶望した魂である。 彼らはチーターに思い焦がれながら、ピックアップトラックと競いあうしかなくなったのだ。」
著者は意図していないが、この走るプロングホーンとは、人類のことでもある.


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