錆びたナイフ

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2014年8月30日
[本]

「正岡子規」 ドナルド・キーン 角地幸男訳

「正岡子規」


日本の古典文学に造詣の深い著者が、正岡子規を取り上げた.
子規の34年の生涯をたどっている.

原文は英文で、この本は日本語翻訳本である.
我々は外国の作家や作品を論じた本を日本語で読むことに慣れてしまったが、逆に俳句や短歌や漢詩を英文で論じるとはどういうことだろう.
この本では、文語で書かれた引用文の後に、括弧付きで現代語訳が書かれている.
明治時代の文語は我々にもそのまま読めなくはないので、現代語訳は冗長なのだが、多分英語原本にはこの引用文がなくて、現代語訳があるだけなのだろう.
「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり」
これを現代語訳しても、描写しているのはなんでもない情景である.
英訳しても同じだろうか.
寝たきりであった子規の「病床六尺」の世界から見た写実であることを抜きにしても、このわずかな文字数の作品は、一度読めば忘れられない強い印象を残す.
「鶏頭は」でも「鶏頭が」でもない、助詞や助動詞が折り畳むように引き出す日本語の連なりが、単語が折り畳まれる度に、そのリズムと一緒になって、主体と対象の間に動的な意味の広がりを生み出す.
だから「鶏頭」「の」でなければならない.
我々にとっての子規の世界はそこから始まる.

子規は日本の俳句や短歌に衝撃をもたらしたが、人間としての子規は偉人ではなく、頑迷さやひ弱さを抱えていた、と、キーンは丹念に子規の人となりをたどり、その思いの変遷を追っている.
明治期の士族の息子であり、東京大学で学んだ子規でさえ、その世界認識は甚だ偏狭だったが、彼らは意気軒昂であった.
司馬遼太郎の「坂の上の雲」でいうなら、子規の郷里の友人であり軍人として世界と対峙した秋山真之、秋山好古、世界の文化のレベルを骨身に沁みて感じていた夏目漱石と共に、それは日本が世界に背伸びをした、明治という時代の熱気でもある.
その百年前の一人の人間を今とらえる方法には、種々のアプローチがありえる.
この書が「子規の評伝」ではなく「子規論」であると言うなら、キーンにとって、子規の作品は何だったのか.
「夜更けて 米とぐ音や きりぎりす」(仰臥漫録)
食欲が命の糸をつむぐように、
その日何を食べたか詳細に記録しながら、どこか乾いた視点で、子規は句を作った.
その短い生涯の晩年は暗い炎のようだ.
「かッと畳の上に日がさした。飯が来た。」(飯待つ間)
生きるとは何なのか、子規の炎がキーン(と我々)の心に、ユラユラと揺れて消えない.


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