錆びたナイフ

back index next

2014年5月3日
[映画]

「ラルジャン」 1983 ロベール・ブレッソン

「ラルジャン」


原題は「お金(L'ARGENT)」
冒頭のタイトルバックは旧式の現金支払機(ATM)
カードを入れると小さな鉄の扉が開いて、中に紙幣が出てくる.

高校生が小遣い欲しさで偽札を使う.
後で偽札と知った店主は、それを石油販売員イヴォン(クリスチャン・パティ)の支払いに使う.
イヴォンはレストランでその札を使い、逮捕される.
偽札を渡した店のリュシアンは、イヴォンを知らないと偽証する.
仕事を失ったイヴォンは銀行強盗の片棒を担がされ、3年の刑を受ける.
刑務所にいる間に、子供が死に、妻は去る.
自殺しようとするイヴォン.
刑期を終えたイヴォンは、最初に泊まったホテルの主人夫婦を殺して金を奪う.
街で見かけた老女(シルヴィー・ヴァン・デン・エルセン)の家にかくまわれて、
イヴォンは老女にホテルで人を殺したと話す.
理由を問われると、「やってみたかった」と言う.
家には老女の父と妹夫婦がいる.
ある夜、イヴォンは斧で家族全員を殺害する.
老女に最後に言った言葉は「ラルジャン」

音楽の効果音はない.
台詞は極度に少なく、人の足音がコツコツと響く.
一家の殺害は悲鳴さえ聞こえない.
家の中で何事が起こったかと、死体の周囲を歩き回る飼い犬の足音だけが響く.
翌日イヴォンが自首する所で映画はフッと終わる.
こんな映画は見たことがない.
人間には手の届かないような不条理が、強固な階級社会のフランスに顔を出した.

いわれのない罪で投獄され、生きるよすがだった家族を失い、彼の絶望は救いようのない凶行を生んだ?
いや、この寡黙な映画は、もっと先を歩んでいる.
斧による人殺しはドストエフスキーを思わせるが、
救い主のソーニャまで殺してしまうラスコーリニコフがいるだろうか.
トルストイの原作(「にせ利札」)の前半は、貴族や農民ら登場人物が、偽札をきっかけに、次々と悪事と不信に染まってゆく.
後半は、この世を誠実に生きて死んだ老女の言葉が、やがて主人公の魂をゆさぶり、玉突きように人の心を変え、信心と信頼を取り戻す.
ブレッソンは、この小説の前半しか描かなかった.
キリストの教えに救われるためには、もっと絶望せよ、と言わんばかりに、
原作の老女は、自分が殺されようとする瞬間まで、男に憐れみを抱いていたが、映画の(名前もない)老女は、ごく普通の人にみえる.
ブレッソンは、イヴォンが救われるような契機を一切省いてみせたのだ.
この世との縁(よすが)が切れてしまった深い闇と沈黙の底に、人々の靴音だけが聴こえる.
イヴォンは、ほんとうに金が欲しかったのか.
ATMのキーを叩けば金が出てくるような私たちの世界で、この男は、もっと奥底の扉を叩いている.
『すべての明るいものは盲目とおなじに / 世界をみることができない』


home