錆びたナイフ

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2014年4月16日
[本]

「ビグバン宇宙論」 サイモン・シン

「ビグバン宇宙論」


地球が丸いなら、
地面に棒を立て、その影で太陽光の角度を測り、それを同時に2地点で実施すれば、地球の大きさを計算できる.
(ただし測定の精度が1度程度なら、2地点は100km以上離す必要がある)
地球の大きさが分かれば、月食で月の大きさが分かる.
月の大きさが分かると、月までの距離が分かる.
月までの距離が分かると、月の満ち欠けを利用して太陽までの距離が分かる.
ここまでの推理を紀元前3世紀のギリシャ人がやってのけた.

光の速度を測る、重力を発見する、惑星の運動を計算する、太陽系外の恒星までの距離を測る、他の銀河までの距離を測る、そして宇宙の起源を探る.
コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、散々聞いた話で結末も分かっているのだが、この著者にかかると、あたかもシャーロックホームズが難事件の謎解きをするように面白い.
上下巻をあっという間に読んでしまった.

ビックバン理論が定常宇宙論と張り合う、現代の科学者たちの丁々発止が、この本のテーマである.
科学者というのは、はたが思うほど理性的でも合理的でも(紳士的でも)ないらしい.
頑迷で意固地で名誉欲と敵愾心にかられた科学者が大宇宙の真理を探究する、というのが人類のおかしさである.
ノーベル賞を頂点に科学者たちの序列があるのなら、地道な研究だけで終わったあまたの研究者たちばかりでなく、日の目を見ず忘れられた理論は限りなくあった.
何より、一生を捧げた自分の研究や理論が、間違いであると実証された者たちの無念さよ.
科学の歴史の背後には死者累々.
畢竟それは学者として何を成したか、ではなく、ヒトはどうやって生きたか、ということだ.

地球の大きさを計算した古代ギリシャ人の凄さは、太陽光と棒の影が作る三角形を、地球規模に拡大しても相似であると、考えたことだ.
この、どこでも成り立つ「普遍」という発想は科学の基本だが、人間にとってそれほど「普遍的」な話ではない.
かろうじて19世紀以降の社会で「科学と実証の合意」ができたが、
試してみれば分かる、という発想を人間が共有するのは、都合のいい時だけである.
太陽は西に沈むのであって、断じて大地が西からせり上がるのではない.
人間の営みは今だに、男女の思い違いと、国家の陰謀と、血液型の性格で成り立っている.

科学者は地上に居ながら、光(電磁波)をもって、宇宙の最果てまで探りを入れた.
あまつさえ、神が「光あれ」とのたもうたのは、創世記1日目ではなく、ビッグバンから38万年後であると、宇宙の起源まで言及するに至った.
天も星もこの世界の全てが、太古のビッグバン(大爆発)から生じた、というのは現代の神話でなくてなんであろうか.
ローマ法王は、ビックバンよりさらに太古を研究してはならぬ、とホーキングに告げたそうだが、もとより彼は喜々として研究を続けた.
しかし人類よ、ノーベル賞をもらえなかった科学者たちの怨念は、ダークエネルギーとなって宇宙を満たし、
宇宙は加速膨張して銀河は遠ざかり、やがて人類の夜空から星々の光が消え失せる時が来るのだ.


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