錆びたナイフ

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2014年3月5日
[本]

「存在と時間 Ⅰ」 ハイデガー

「存在と時間 Ⅰ」


「世界内部的に出会われるものが、配慮的に気遣いつつある配視、つまり斟酌することによって、おのれの存在において解放されているということ」で、「世界は道具的存在者を出会わせうる」
これは、「テーブルの上にコップがある」ということを言おうとしている.
1歳児でもわかることを陳述するために、これほど難解な言葉で苦悶するニンゲン(ハイデガー)がいるのだ.
「配慮」とか「気遣い」とか、いわば気持ちの言葉がこの哲学理論にあふれているのは、「実存(=生きてあること)」を言い表わすためだろう.
要するにそれは、赤ん坊がコップをつかんで匂いをかぎ、舐め回し、放り投げるのに似ている.
誰もがしたのに忘れてしまった、それが、「存在」と「世界」の始まりだ.

我々が考える、そこに見える、触れられる、というような行為と言葉を一旦解体している.
さらに、測定できる、推測できる、実験できる、証明できる、という筋道も放り出している.
ハイデガーは、ハンマーや靴のことを、存在物ではなく「存在者」と呼んでいる.
まるで「コップさま」と言っているようだ.
赤ん坊にとって、コップは最初目の前に貼り付いた模様のようなもので、触ればツルツルして、手を伸ばすと動いた.
そいつをつかもうとすると、テーブルから落ちた.
すると「コップさま」は、赤ん坊に向かって、これはテーブルで、オレはコップだ、と言った.
赤ん坊は、コップがそこに「ある」ことが「わかった」.
ハイデガーは、世界という空間の中にコップやテーブルや自分や他人という存在がある、とは考えていない.
ニンゲンとニンゲンが利用する「もの」とが、ジグソーパズルのように世界を埋めている.
ものの大きさや位置や距離は背後に隠れている.
そういう「道具的存在者」がザワザワと騒ぐのが「世界」という「現象」であり、
それが「現存在」というニンゲンの立場の「ありよう」なのだ、と言っている.

「存在了解はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである」
「現存在の「本質」はその実存のうちにひそんでいる」
「認識作用は世界内存在の一つの存在様式である」
「「世界」は、・・現存在自身の一つの性格なのである」

「ワレオモウ、故にワレアリ」(デカルト)という、
分かったようでわからない「ある」という哲学の基本を、ぶっちぎったのだと、ハイデガーは考えている.
この本、遥か頭上を流れる雲のように、
何を言っているのかサッパリ分からない.
しかし読み返すうちに、奇妙なイメージに包まれる.
こことあそこの区別がつかない.
「トイ・ストーリー」のように、「もの」たちが親しげににじり寄ってくる.
ハイデガーはとんでもないことを言っているのだ.
あるいは、とても単純なことを言っている.
世界はあるようにある、とでもいうように、
難解な言葉の果てに、どこか開放感を感じるのはなぜか.

この書は全3巻のうち1巻目
ハイデガーは巻末で、
「誰もが他者であり、誰ひとりとしておのれ自身ではない」
「差しあたって現存在は世人(=世間)であり、たいてい世人であるにとどまる」
など、ミもフタもないことを言いだした.


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