錆びたナイフ

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2014年1月23日
[映画]

「尼僧物語」 1959 フレッド・ジンネマン

「尼僧物語」-1

「尼僧物語」-2


戦前のベルギー、ガブリエル(オードリー・ヘップバーン)が父親に別れを告げて修道院に入るところからはじまる.
日本で言う、世を捨てて山里に侘び住まいする「尼僧」とは話が違う.
修道院での集団生活はほとんど禅宗僧侶の修行に近い.
当時植民地だったアフリカのコンゴで、現地人の医療に尽した父のように働きたいというのが彼女の夢だった.
カトリック教会は、修道女を看護婦として世界へ派遣した.
修行を積んでナンになった彼女たちに、顕微鏡の扱いや病理学の口頭試問はかなりのハイレベルである.
彼女はどこへ派遣されても懸命に働いたが、アフリカの現地人の治療をしたいという希望を持ち続ける.
自己を捨て神に仕えよと訓練する修道院で、自分の「希望」を持つことは軋轢の種になる.
それがこの作品の底を流れている.
教会が植民地に修道女を派遣するのは、同時に布教活動をするということだろう.
アフリカの診療所で、粗末な祭壇に木偶の聖人たちを並べて祝うクリスマスは、あれ?、現地人の偶像崇拝に先祖返りしたかと思わせる.
けだし宗教が為そうとするのは魂の救済であり、肉体の治療ではない.
彼女たちの献身は矛盾をはらんでいる.

尼僧姿のヘップバーンが美しいというだけの映画ではない.
現地の赤ん坊を抱いた時にみせた、あのふわっとした笑顔はほんの束の間.
宗教の戒律とその組織の下で、必死で働くその顔に苦渋の影がさす.
映画の後半に現れる彼女の苦しさは、宗教に全身全霊を捧げることができない、つまり、どうしてもこぼれてしまう思いがある、ということだろう.
戦渦による父の死の知らせを受けて、敵国を赦すことができない、と彼女は懺悔する.
映画はついに、ヒロインが修道院を出て行くところで終わる.
まるで獄舎を解放される者のように、見送る人も待ち受ける人もなく、粗末な部屋の扉を開ければそこは街の裏路地だ.
このエンディングは、ヒロインの再生を暗示しているが、
何となく現地の医師ピーター・フィンチと結ばれてハッピーエンドになってほしかった、と思う観客は肩すかしをくらう.
話が振出しに戻っている.
一体彼女は何を求めて此処へ来たのか.
このエンドマークの先で、戦時下のレジスタンスに加担しても、彼女に笑顔が戻るのだろうか.

沈黙と無私を強いる修道院の生活に、現代的な魅力がないわけではない.
映画はそれを丹念に描いている.
だから教会の言われるまま、徹底して神の思召しを生きる主人公もあり得た.
彼女が教会から出て行くのではなく、彼女の中から教会が出てゆくところまで突き詰めれば、そこで神と対話ができた.
しかし映画の作者は、ガブリエルが宗教を捨てて「成長」することを望んだ.
ジンネマンは、そのドキュメンタリー制作の力量で壮大なアフリカロケをやり遂げ、このヒロインにも一人の女性のリアリティを求めた.
しっかりした作品だが、
夢を押しつぶす世の不条理や無理解に苦しむ役は、他の女優でもできるだろう.
ヘップバーンは、あまり苦労せずに幸せになってほしい、と思ってしまう.


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