錆びたナイフ

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2013年12月20日
[本]

「贈与論」 マルセル・モース

「贈与論」


アメリカや南洋諸島の先住民の膨大な調査資料と、インドやヨーロッパの古代資料を元に、人間の初源的な交換行為を論じた「社会人類学」の本.
90年前に書かれた論文で、注釈が多く決して読み易くはない.

贈与とは「恵んであげること」ではない.
贈り物を頂いたらお返しして、お互いさま、みんな平等うらみっこなし、でもない.
贈与はそもそも不平等が生んだ均衡の力学であり、それは儀式や宗教や神話と混然となって、まかり間違えば戦いになった.

資本主義や市場経済誕生のはるか以前、「余剰物」は必要に応じて物々交換されたのではなく、贈与された.
誕生や結婚や葬式を機に盛大な宴会を開き、招いた客に贈り物をするという、アメリカ先住民の「ポトラッチ」という行為について、モースは、
「あらゆるものは「富の戦い」であると考えられている。自分の子供の結婚や結社の地位は、交換され返却されるポトラッチを通じてのみ取り決められる。
ポトラッチにおいては、お返しを貰うのを望んでいると思われないために、贈与や返礼をせずに、ひたすら物を破壊するのである。彼らはギンダラの油や鯨油の樽をそっくり燃やしたり、家屋や数千枚の毛布を焼き払い、競争相手を「負かす」ために高価な銅器具を壊したり、水中に投げ込んだりする。
このようにして自分や家族の社会的地位を高める。」
と述べる.
まるで札束を燃やすような、目も眩むようなポトラッチの「ムダ」は、「消費」の極限の「無為」を覗き見ているようだ.
「富の戦い」とは、蓄財することではない.
まるでババ抜きのカードを捨てるように、散財して無一文になろうとするチカラだ.

「ローマ人やギリシャ人は、・・人の法と物の法との区別を考え出し、売却を贈与や交換から切り離し、道徳上の義務と契約とを分離させ、特に儀礼、法、利益の間にある相違を認識するようになった」
ここからが近代社会である.
かくしてモースが想像もしなかった時代が来た.
戦争という名の「ポトラッチ」は、今やオリンピックとワールドカップに変貌した.
大量の消費を突き動かすものは、限りなく差異を求めて循環する現代のポトラッチである.
ムダを排し製造コストを下げ少しでも安い製品を作るという、資本主義の暗黙のルールの背後で、コストもリスクも放り出した巨大な「消費」が、口を開けている.
コストを下げる=命を長らえる、その果てに消費しているのは、今や商品と化した「生命」である.
「生きる」とは、節約ではなく、消尽、使い果たすことなのだ.
いわれのない贈与とは、生命そのもののことだ.
神への供犠と同じく、それが非合理で無駄だからこそやるのは、最初の贈与が「命」だったからだ.
キリスト教は、そのお返しを「原罪」と呼んだが、
今や世界語である「もったいない」や「エコロジー」もまた、贈与が産み出した負債のトラウマである.


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