錆びたナイフ

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2013年11月15日
[本]

「代書人バートルビー」 ハーマン・メルヴィル 酒本雅之訳

代書人バートルビー


ニューヨークの法律事務所に、代書人として雇われた男バートルビーが、
「せずにすめばありがたいのですが」と言って、だんだん仕事をしなくなる、という話.

バートルビーが職場でジンジャー・ナッツしか食べないので、この物語の語り手であり雇い主である所長は、
「ところでジンジャーとは何だろう。辛くてピリッとする。バートルビーは辛くてピリッとしているか。」
と妙なことを考える.
頼んだ仕事を何度も断られて、
「自分で雇った所員から、不名誉な肘鉄をくうことができそうなことが、何かほかにないものか。」
所長の発想は常軌を逸してくる.
「申しぶんなく穏当で、あいつが断わることまちがいなしというようなことが、まだほかに何かあるか。」
バートルビーが事務所を常住の場所としているのを知って、所長は、
「代書人が根深い癒やしがたい混沌の犠牲になっていることを確信させた。」
「あいにく彼の痛みは肉体によらず、彼を苦しませているものは魂であり、彼の魂にまではわたしの手は届かなかった。」
やがて、
「わたしのこの世でのつとめは、バートルビー、君がいたいと思うだけ君に事務所の部屋を用だてることさ。」
という思いに達したが、
結局、所長の怒りは爆発し、
「暗くならぬうちにここから立ち去らないと、わたしとしてはどうしても、それどころか、ぜがひでも、ぜったい、ぜったい、わたしがここから出ていってやる」
と言い放つ.
この人はいい人なのだ.

ところでくだんのバートルビーは、
自分のことは何も語らず、窓の外のビル壁を見つめるだけになる.
「有為に生きない」こと、あるいは否定的な衝動に駆られることをもって、書かなくなった作家をバートルビー症候群と呼ぶそうだが、
この作品のテーマはバートルビーにあるのではなく、この所長ではないだろうか.
バートルビーは道に開いた穴ぼこのようなもので、そこを覗いてはいけない.
所長は「分別」があり「几帳面」であり、善良なキリスト教徒として、バートルビーに憐れみをもって向き合おうとするが、
「いかずにすめばありがたいのですが」
「いまのところ、お答えをせずにすめばありがたいのですが」
やんわりと拒否される.
身もだえるように、なぜだ!?と問う.
理由さえ言ってくれればどんな理不尽も受け入れるかのように・・
宙吊りになった所長の足下にも暗い穴がみえる.
この世の営みに理由などない・・と.
何よりもそれが怖ろしい.

物語は最後に、
バートルビーが、嘗て配達不能郵便の担当者だったらしいと語る.
穴を、覗いてしまったのだ.


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