錆びたナイフ

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2013年10月27日
[本]

「チーズとうじ虫」 カルロ・ギンズブルグ

チーズとうじ虫


16世紀、メノッキオと呼ばれたイタリアの粉挽(こなひき)屋が、村人だれかれの見境なく相手をつかまえ、
「天、地、海、空気、深淵と地獄、すべてが神である」
「処女マリアがキリストを生むということは不可能だ」
「私たちはすべて神の子であり、十字架に架けられたもの(キリスト)と同じ性質のものだ」
「司祭や修道士のところへ懺悔をしに行くのは、立木のところに懺悔しに行くのと同じだ」
「私たちを治めている法により、教皇、枢機卿、司教たちはかくも高貴かつ富裕とされたため、すべてはローマ教会と聖職者のものとなり、かれらは貧しい人びとからむさぼりとるのだ」
と言った.
彼は投獄され異端審問にかけられた.

彼の世界認識は確固としたもので、審問官の問いにこう陳述した.
「すべてはカオスである、すなわち土、空気、水、火のすべてが渾然一体となったものである。
この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳からチーズができるように。そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ。
そして至上の聖なるお方は、それらが神であり天使たちであることを望まれた。
これらの天使たちのうちには、それ自身もこの塊から同時に創造された神も含まれている。」
審問官から見れば、メノッキオの言っていることはチンプンカンプンだったが、彼の言説は教会の権威を脅かし民衆を惑わすとみなされた.
彼の主張は宗教改革に匹敵するが、ルターほどの信念があったわけではない.
メノッキオは当時の農民には珍しく読み書きができた.
神がそうであるなら、世界はこうあらねばならない.
宗教学のエリートである審問官に、自らの意見を開陳できる高揚と、異端とされれば焚刑となる恐怖と・・メノッキオの主張は紆余曲折する.
メノッキオは一旦は悔悛して解放されるが、
またぞろ同じことを吹聴し始め、
15年後、2度目の異端審問で火刑となった.
69歳
自分のことを「哲学者、占星術者、そして預言者である」と言い「しかし預言者でさえも誤ることがあります」と言ったこの粉挽屋.
ドイツで起った宗教改革の底流と印刷術の普及がこの男を生んだのだが、
頑なで柔軟な心を抱え、数奇で悲惨で滑稽だった.

500年前の裁判記録が教会の書庫に眠っているというのも驚異だが、
興味深いのは、それを掘り起こし調べ上げたこの本の著者ギンズブルグだ.
冒頭から著者はメノッキオを「従属階級」と呼んでいる.
当時のイタリアは「支配階級」と「従属階級」に分かれており、文字に記録される文化は「支配階級」が生み出したものであり、
メノッキオの発想は、当時の農民伝説と数冊の書物に依存していると、ギンズブルグは考える.
「従属階級の文化の主要部分は口頭伝承の文化である」から「記録」として残っておらず、裁判記録に書かれた彼の言葉から、影響を受けた著作を推定しようとする.
その、本と受け売りのズレ(誤解と勝手な解釈)が、メノッキオの思考の核心だと、ギンズブルグは考えている.
「お前が一人で考えた訳ではあるまい、何者に感化されたのか、ありていに白状せよ」
(それは自分で考えたことだと、メノッキオはくり返し訴える.)
ひとりの人間の言動が多くの先人たちの影響を受けているのは、イタリアの大学教授であるギンズブルグも同様だろう.
メノッキオの存在が16世紀のイタリア社会を照らし出すことは、それを取り上げたこの著作が現代イタリアを照らし出すことと同等である.
私には、ギンズブルグの周到な言い訳にも関わらず、現代イタリアの「支配階級」が16世紀から少しも変わっていないように思える.
相手の思想を丸ごと捉えることができず、周知のテキストに還元しようとする.
ギンズブルグが異端審問官と違うのは、メノッキオを拷問しなかったことである.

この粉挽屋の話は、小説にするべきだと思う.
メノッキオはウッディ・アレンで映画にしたらいいと思う.
審問官との問答は、そのまま再現すればとても面白いだろう.
強大な権力の前で吃りつっかえながら意見を吐くたびに、彼の世界は広がり迷走し、やがて収拾がつかなくなる.
そして当時のカトリック教会もまた、ルターの一撃を喰らって収拾がつかなかった.
誰もがそれぞれの神に救いを求めた.
メノッキオの身体は、その理論通りカオスの四元素に帰った.
カオスに収拾はない.


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