錆びたナイフ

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2013年8月25日
[本]

「新編 分裂病の現象学」 木村敏

「新編 分裂病の現象学」


"第二章 ドイツ語圏精神病理学の回顧と現況"・云々・学会向けの専門書かと思いきや、そうでもない.
「生命的物質としての身体は、ただそれが死の可能性を含むことによってのみ、自を他から分つ個別化の原理たることができる。身体が死の可能性を含むということは身体が歴史をもつということである。」
精神分裂病は、主に思春期を通して、個別化の確立が不十分であるとき、人と人の間で、それを補償する形で現れる、と著者はいう.
では個別化した自分とは何か、「他人」とは何か?
臨床医である著者は、患者の心の内を理解するために、人間の精神にとって「自明」であることを問い返す.
よって立つのは分子生物学でも脳科学でも情報理論でもない、ハイデッガーとフッサールと西田幾多郎である.

「自己が自己自身の底に自己の根柢として絶対の他を見るといふことによって自己が他の内に没し去る、即ち私が他に於て私自身を失ふ、之と共に汝も亦この他に於て汝自身を失はなければならない、私はこの他に於て汝の呼声を、汝はこの他に於て私の呼声を聞くといふことができる。」
この西田幾多郎の弁証法の禅問答のような言葉は、分裂病者の妄想の構造に等しいと、著者は言う
「分裂病者が苦痛として体験している自明性喪失は、現象学者にとっては努力の目標であり、
 分裂病者が必死に求める最小限の自明性が、現象学にとっては克服さるべき障碍を意味する。」
患者は、こう説明されても少しもうれしくないだろう.
精神科医というのは不思議な職業だ.
他人(患者)の心の中を、自分(医師)の心を通じて診断するというのは、他の医療や科学にはない矛盾と危機をはらんでいる.
ヒッチコックの映画に登場する「異常な行動をする」主人公たちは、そのトラウマの原因を知って、ああそういうことだったのか、と映画は終わるが、
実はたぶん、何も解決しないのだ.

ある患者は、
「絵は色や形が混じりあっているだけ、音楽はいろいろな高さや強さの音が並んでいるだけ。 作品の内容も意味も全然感じられない。
 映画やテレビも、一つひとつの場面はわかるが、場面から場面へのつながり、意味のつながりが全然わからない。」と訴える.
著者は言う、
「人間の視覚や聴覚などは、外的な感覚刺激の受動的な受容に尽きるものではなく、厳密な意味で能動的な行為である。
 われわれの意識作用は行為的事実(知覚に際して感覚と表現が恊働すること)を、つねに現在のこととして産出する。
 だから現在とは、行為的事実の時間様態にほかならない。」

つまり、世界に意味があり、コップや椅子が、「ガラス」のかたまりや「木片」でない、と認識することは大変なことなのだ.
赤ん坊の頃から、つかみ噛みつき匂いをかぎ舐めまわし割って壊して転げ落ちて、そういう行為の総体として、コップと椅子が目の前にあるのだ.
だから「行為的事実」を抜きにすると、世界は意味を失い、バラバラになる.
私のデジカメは、被写体がウインクするとシャッターをきる.
しかし映像認識で人間の所作を判断できても「人間を認識」している訳ではない.
画像データに「反応」するだけのデジカメは、つまり分裂病なのだ.
「刺激を連発」するだけの番組と、15秒で次々切替わるコマーシャルを見て、意味のつながりがわからないのは、テレビが分裂病だからだ.
1世紀前から、この病とともに現れた近代という名の社会は、人間の「行為的事実」をすっ飛ばし、すべからくこの病の別名となったのである.


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