錆びたナイフ

back index next

2013年7月20日
[本]

「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン

blgDSC_0991


ノーベル物理学賞を受けたリチャード・ファインマンの、
1960年代から80年代の講演やインタビューを集めている.
ナノテクや量子コンピュータの話は時代を先取りしていて面白いが、
ファインマン先生、社会学とか心理学とかを、疑似科学だと非難して止まない.
例えば、経済や教育分野の理論は、検証も結論もてんでんバラバラなのが気にいらない、ということらしい.
それは、それらの学問がいい加減だからではなく、今の科学手法そのものに限界がある証拠だと思うのだが・・
生物学とか宗教とか共産主義もやりだまにあがっている.
アメリカには政治的な圧力をもった反科学的な団体がたくさんあるから、ファインマン先生、そういう手合いと散々やり合ったのかも知れない.
しかし批判する分野に関するファインマンの知識はひどく貧弱で、これで議論になるのだとしたら、それはどちらも「エセ科学」の類いである.
理論物理学者であるファインマンは、疑うことが科学の真髄と言いいながら、どうしても「科学そのものを疑う」ことができなかったし、
科学でないと決めつけた分野は、マジメに調べてみる気も起こらなかった.

ファインマンは、原子爆弾開発のマンハッタン計画に加担したことを後悔して、ドイツが降伏した時点で開発を中止すべきだったと言っている.
彼の旺盛な科学への情熱は社会性でも有用性でもない「面白いことをしたい」に根ざしているのだから、それは無理な話だ.
iPS細胞や臓器移植の技術は、いわばフランケンシュタインの再来だが、それで病気が治るなら人々はそれを希望だとみなす.
そうやって人類が踏み越えてゆくものとその先を、正しく認識できる科学者などいない.

科学は、自然や世界そのものではなく「実験の確認手段」に過ぎないのだが、その高度な「実用性」で「科学の優位と崇拝」にすり替わった.
ガリレオやニュートンの時代から高々300年、ファインマンたちが確立した量子力学や、最近の宇宙論を眺めていると、科学は数学の衣をまとって、はるか奇妙キテレツな相貌になった.
亀の背中に乗った象が支える地球も、多次元で振動する小さなヒモも、泡に張り付いた宇宙も、我々「一般人」には同じくケッタイな話である.
「科学」は、科学を解決するために科学による変貌を繰り返し、永久に蝶になれないサナギなのだ.


home