錆びたナイフ

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2013年6月10日
[本]

「象徴交換と死」 ジャン・ボードリヤール

「象徴交換と死」


1976年の著作

「死は与えられ受けとられてこそ意味をもつ。
すなわち交換によって社会化されてこそ意味をもつ。
・・われわれは自分の死を自分の身体に刻まれた「現実の」運命として生きるのであるが、その理由は、われわれがもはや死を象徴的交換儀礼のなかに刻みこむすべを知らないからだ。」

「われわれの身体は交換不可能な死の監禁の場所として実在しはじめる。」

「「未開人」のものの考え方は、彼らをとり巻くすべてのものとの相互的で両義的交換の論理と見合っていて、だからこそ自然的異変も死も彼らの社会構造の枠内で理解できた
・・ところがわれわれの場合は、死は端的に誤謬推理(うけいれがたく解決不能のもの)なのである。」

「あらゆる商品、すなわち価値法則と等価性の支配下で生産されるあらゆるモノが、社会関係をふさぐことになる。
分解できない残滓と同じように、生産されるが象徴的破壊を受けないあらゆる語、項、音素は、抑圧されたもののように蓄積され、死んだ言語のあらゆる抽象作用をもって、われわれの上に重くのしかかってくる。」

ボードリヤールは、社会と人間の精神の根底を問い直そうとしている.
科学と資本と経済は、人間の心と総がらみで驀進している.
積み重ねられた今までの考えや視点は、ことごとく追い抜かれた.
資本の支配も、労働と搾取も、無意識の抑圧と去勢も、何も見ていないのと同じだ.
現代社会は廃棄物の「夢の島」だ.
カモメが舞い、かつて生産された壮大なゴミ(いやビックデータ)を、ブルドーザーが掘り返している.
どれも他ならぬ地球上で生まれ無限に再生産され、消えることがない「価値の夢」だ.
夢は、燃え尽きなければならない.
「無用でぜいたくな消尽だけが意味をもつのだ・・節約など何の意味ももたない。
それは生の規則をつくったあとの残りカスでしかない。
ところが、真の豊かさは、死との豪奢な交換、すなわち供犠、「呪われた部分」のうちに存在している。
この部分こそは、投資=備給の対象となることも、等価物となることもなく、無に帰せしめる以外にはどうしようもない部分なのだ。」

「未開」ではないこの社会では、もぎ取られるような「予期せざる非業の死」だけが、死を本来の消尽に返す.
「死んでやるっ!」と言えば、たじろぐものはたくさんある.


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