錆びたナイフ

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2013年4月7日
[本]

「街場の文体論」 内田樹

「街場の文体論」


「(ヨーロッパ社会が)階層社会というのは、単に権力や財貨や情報や文化資本の分配に階層的な格差があるということだけでなく、 階層的にふるまうことを強いる標準化圧力そのものに格差がある社会だ」
その圧力を作っているのが、ロラン・バルトの言う「エクリチュール」(言語的定型)であり、ヨーロッパでは、下層の労働者階層の方が圧力が強い、つまり階層的にふるまうことを強られる.
と、著者は述べている.
キャメロンの映画「タイタニック」で、イギリスの上流階層のヒロインが労働者である青年の生き方に共感するのだが、その逆はない、ということらしい.
ヨーロッパの映画を観て時に感じる労働者たちのヤケクソ感は、このエクリチュールを越えられない/越えようとしない人々の息苦しさだったのか.

旧約聖書の「イサクの犠牲」について、
なぜアブラハムにはそれが神の声だとわかったのか.
「主の言葉は一意的に、直接的に、アブラハムに到来し、いかなる解釈も許さないメタ・メッセージであり」「この言葉の宛先は他の誰でもなく自分である」とアブラハムが確信したからだ.
メタ・メッセージは宛先をもっていて、赤ん坊が母親から与えられる言葉も同じく、まず「記号」ではなく「宛先」である.
と、内田は述べている.

ジャック・デリダの書「死を与える」も、イサクの犠牲を執拗に掘り下げ、人間の「責任」と「自由」に肉薄しようとしていた.
最愛の息子イサクを犠牲に捧げよ、という不条理の極限のような神の言葉に、終りのないこだわりと問いかけを持続するヨーロッパの思想は、一朝一夕では歯が立たない.
内田樹(たつる)はフランスの現代思想の著作を多く出しているが、この書は大学での最後の講義をまとめたもので、言葉を中心にした思想の展開と、現代社会の切り口があざやかである.
アジアの辺境に住む日本人は、上下に階層化したエクリチュールも、強力な一神教が支配する世界も持たなかった.
ヨーロッパからみれば、おそらくノーテンキで子供じみた民族に見えるだろう.
武道家でもある内田は、世界を原因→結果ではなく、ある種の気合いというか間合で見ようとしている.
言葉で表現される思想は、常に「ではその言葉とは何か」という根源的な問いにさらされている.
言葉を発するもの、まず身体(からだ)に問うことだ.


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