錆びたナイフ

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2013年1月6日
[本]

「方丈記」 鴨長明

「方丈記」


ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・

有名な冒頭だが、原文はこの本の20頁分ほどで、浅見和彦がそれに訳文と評論を加えている.
1177年〜1185年は、安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震・・惨憺たる時代だった.
太古から、人は常に災害にさらされてきた.
悲惨と無常の中で人は生きた.
人間の営みが天変地異や戦乱や政治の気まぐれで、あっという間に吹き飛び、
ほとほとこの世が厭になったのか鴨長明、
方丈(3メートル四方)のいわばプレハブ小屋に住まって、俗世間を忘れようとする.
「旅人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭をいとなむがごとし」
「今、さびしき住まひ、一間の庵、みづから、これを愛す。」
「帰りて、ここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ」

この書の前半をさいて都の災害を縷々書きとめた作者が、「家屋」に対する執着を断ち切るべく、出家遁世する、というのは一体何だろう.
それに、どうやって暮らしていたのだろう.
山から水を引き、薪を拾い、木の実や野草を取った、という記述はあるが、そんなことで生きていけたのだろうか.
それが可能なら、死者累々の飢餓も、皆が山で生活すれば解決するのではないか?
当時の「世捨て人」には何かカラクリがあるような気がするのだが・・・

そもそも、ヒトが好きこのんでやることに思想的な課題はない.
だから本の帯にあるような「不安な時代の生き方・・」が作者の意図だとしたら、つまらない話だ.
住居や財産や世間の思惑にこだわらないことは、確かに青空を仰ぐような開放感があるのだけれど、
こだわることとこだわらないことはそもそも等価で、鴨長明、この記の最後に、方丈の生活そのものにじんわりとした疑問を感じる.
「これ貧賤の報のみづからなやますか。はたまた、妄心のいたりて狂せるか。その時、心、さらにこたふる事なし。」
方丈に住むことは、この世の悩みを解決しない、のである.
日本の12世紀の、世の終わりを思わせるどん詰まりの退廃と絢爛は、幕末より混沌としていた.
この時代を足掻いて生き抜いた作者のありようとして見れば、定家の「名月記」や後白河院の「梁塵秘抄」のように、「方丈記」も時代に凝立している.

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